自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1282冊目】中島岳志『秋葉原事件』

秋葉原事件―加藤智大の軌跡

秋葉原事件―加藤智大の軌跡

「要約不可能」……というより「要約無意味」な一冊。

本書は、秋葉原歩行者天国で無差別連続殺傷事件を引き起こした加藤智大の、出生からの25年間を追ったノンフィクションである。母親からの虐待に近い「教育」、言葉でなく行動で「アピール」するクセ、学歴や外見へのコンプレックス、職場や人間関係のリセットを繰り返す中で、リアルの世間と切り離される日々、不安定な派遣就労への不安、掲示板への没入とそこでの孤立化など、「加藤智大」という一人の人間の具体的な「人生」が、淡々と綴られている。

本書のページを繰る中で、25年の軌跡を丹念に追っていくと、事件の「原因」が何だったのかなんて、カンタンには言えないことが身に沁みて分かる。上に挙げた様々な要因だって、一つ一つを捉えてそれが「原因」であると言われれば、なんだか納得してしまいそうだが(実際に、女性週刊誌やテレビのワイドショーなどはそういう「切り取り方」をしているのだが)、こうして全体を通観してみれば、それがいかに本質を外しているか、言い換えればマスコミの報道というものがいかにご都合主義的なものかと思い知らされるのである。

それは当然、秋葉原事件だけに言えるコトではない。どんな事件や出来事にも、引き起こした人間にはそれなりの来歴があり、その蓄積があり、しかもそれは、その人の生涯を通じて複雑に入り組み、相互に影響し合っている。それを最低限理解するには、少なくとも本書のように、その一生を丁寧に追っていくしかない。著者自身が本書のあとがきで書いているように「事件の動機を『ズバッ』と単一のものに限定しない」ことが必要なのだ。カンタンに善悪を決めつけず、いわば「中腰」のままで事実を追い続け、複雑なものを複雑なままに理解しようと努めることが必要なのである。

実際、本書で著者が示している「粘り腰」の強さは圧巻である。200ページ以上にわたり、とにかく一つ一つ「事実」を積み上げ、そこから「考察」を重ね、加藤智大の「切実さを理解」することに徹したのだから。それゆえに、本書のラストで加藤がトラックで秋葉原歩行者天国に突っ込むくだりに、異様な「納得感」と、そして身震いするような戦慄が生まれるのだ。

本書が「要約無意味」という意味が、分かっていただけただろうか。本書が書きたかったことは、このページ数を費やさなければ伝わらないことなのだ。そして、われわれは毎日のように報道されるショッキングな事件の裏側に、これだけの複雑さを想定し、テレビや週刊誌に示される結論に単純に飛び付かないよう、自戒しなければならないのだろう。当然、そのことは今起きている事件だけではなく、例えば明治維新大東亜戦争などの、歴史上の大事件にも言えることである。

そしてもうひとつ、事態を単純化してはならない理由は、単純化が得てして「他人事化」につながりやすい、ということではないかと思うのだ。実際、あの事件に対しては、加藤智大を一種の「モンスター化」し、自分とは関係ない世界の人間であるかのように見る人が多かったように思う(オウム真理教やサカキバラ事件でも、同じような見方があった)。しかし、こうして加藤の生涯を辿ってみると、まったく同じ人生はもちろんありえないにせよ、その中には少なからず、自分自身と共鳴する部分があるのである。つまり本書を読むことは、加藤智大を「自分事」として読み解き、自分の中にいる「加藤智大」と向き合うことでもあるのだ。著者自身、本書のプロローグでこのように書いている。今の日本でもっとも必要なのは、おそらくこうした視点ではないかと思う。

「おそらく同時代に生きる私たちは、加藤の中にわずかでも自己の影を見てしまうだろう。加藤の痛々しさと、自己の痛々しさがオーバーラップする部分があるに違いない。そして、自分の身の回りにいる彼・彼女の姿を、加藤の歩みの中に見るに違いない。
 その胸の痛みから、私たちはスタートするしかない。そして世界と他者と自己と対峙しなければならない。面倒くさいことだが、そこから始めるしかない。そうしないと、大変なことになってしまうような、そんな予感が私にはある。どうしようもない切迫感が、私にはある」(p.17)