自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1272冊目】松本健一『海岸線の歴史』

海岸線の歴史

海岸線の歴史

「海岸線」から日本の歴史をたどる一冊。海岸線という着眼点から、びっくりするような日本史が見えてくる。

著者によると、「海岸線」という用語自体、近代以降につかわれるようになった、比較的新しいコトバであるらしい。かつては「なぎさ」や「みぎわ」、「海辺」と呼ばれることが多かった。「海岸」という言い方さえも、あまりされていなかったという。そして、海岸線が日本人にとってもつ意味合いもまた、時代によって大きく変わって来た。

もともと日本人は「海やまのあひだ」(折口信夫)に住む民族である、といわれる。日本にやってきた欧米人は山や高台の上に居を構えることが多いのに対して、日本人は山と海にはさまれた狭い平地に住んできた。

そして同時に、海岸は神と人、生と死が接触する場所でもあった。神は海の彼方からやってきて、また還っていく。生命もまた同じであると考えられていた。そのため、かつては出産のための産屋は砂浜に建てられ、そこの砂を産土(うぶすな)、赤子を洗う湯を産湯と言ったのだ。一方、死者は海の彼方へ去っていくのであり、海の向こうはまさに「彼岸」であった。

こうした概念自体、カタチをかえつつ日本人の心の奥底にたゆたっているような気がするが、さらに日本人の「海岸概念」に大きな影響を与えているのは、いわゆる「白砂青松」という、砂浜に松林という組み合わせの風景であろう。ところが、実はこの「白砂青松」は、江戸時代あたりに人工的につくられたものであるらしい。その背景にあるのは江戸時代における食料産出力の増加、つまりは水田の増加であった。

水田が海辺近くにつくられると、海から吹き寄せる塩気をふくんだ風から、田を守る必要が出てくる。そのため設けられたのが、防風林としての松林だ。つまり「白砂青松」とは、これまで作られなかった海岸近くに水田をつくるための工夫であり、それが結果として、日本固有の風景につながったのである。もっとも今や、そうした風景はコンクリートの護岸とテトラポッドに変えられてしまい、絵の中の風景でしかなくなってしまったが……。

一方、港としての「海岸線」は、近代に入って大きく変化した。それまでの日本の船は、近海を航行するため喫水が浅く、そのため港もまた、水深がそれほど深くないところが多かった。その典型例として本書でたびたび取り上げられているのが、広島の鞆の浦。「ポニョ」の舞台と言われ、埋め立て計画が裁判沙汰になったアレである。他にも酒田、三国、萩などが、江戸時代までは国内交易のための港として栄えていた。

ところが「黒船」によって状況は一変。外洋を航行する西洋の船は喫水が深く、鞆の浦のような「浅い」港には入れなかった。そこでペリーらが開港を要求したのが、横浜や函館、神戸といった、背後に切り立った崖や山をもち、そこからストンと海底深くまで絶壁が落ちているような、水深の深い港であった。それまで外国との窓口になっていた長崎や、現在に至るまで軍港として繁栄した横須賀も、同じような「深い」港である。この時新たに開かれた横浜や神戸などが港町として繁栄し、一方でそれまで栄えていた鞆の浦や酒田のようなところが衰退したのには、こういう理由があったのだった。

さて、戦後の日本の「海岸線」をめぐる状況は、ご存知の通り。特に戦後の高度成長期には、コンクリートテトラポッドで砂浜を潰し、それまで身近だった海岸線を日本人から遠ざけてしまった。

そのことは、日本人の「内向きの」アイデンティティの形成とも、何か関係がありそうだ。もっとも、そもそもは海岸線の存在こそナショナル・アイデンティティを掻き立てるものだった。林子平は「海国兵談」を書いて海防の必要性を叫び、海岸に外国人が漂着することの多かった水戸藩では、ナショナリスティックな水戸学が花開いた。外に向けた国家の防衛と内に向けたナショナルアイデンティティは表裏一体のものであり、海岸線は、まさにそうした心理作用の舞台でもあったのだ。

以上、自分が興味を惹かれたところを中心に、ざっくりと内容を要約してみた。もちろん、本書には他にもいろいろ面白いエピソードや指摘が満載されており、海岸線という切り口で、みごとに日本の本質のようなものが輪切りにされている。海岸線は「境目」であるからこそ、そこから日本を見ることは、言うなれば日本を背中から、あるいは裏側から記述するような面白さがあるのかもしれない。

しかし実は、今や海岸線は国の「内と外」を区切るものではなくなっている。むしろ海は、資源競争の舞台であり、国と国との覇権をめぐる主戦場になっているのだ。「海岸線の歴史」を綴って来た本書の結論として、これはたいへんな皮肉としか言いようがないが、その中でいかに「国」としての一体性を保つかという、いわば「新たな海岸線」をわれわれの中に持つことこそが、今となっては必要なのかもしれない。