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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1256冊目】児島襄『東京裁判』

東京裁判 (上) (中公新書 (244))

東京裁判 (上) (中公新書 (244))

東京裁判 (下) (中公新書 (248))

東京裁判 (下) (中公新書 (248))

松岡正剛氏の『連塾方法日本3』からの芋づるで、小林正樹監督の記録映画『東京裁判』を観た。

DVD2枚組、4時間半に及ぶ長大な作品だが、そのあまりのスリリングさにまったく退屈することがなかった。松岡さんが「日本映画で10指に入る」と書いていたのもうなずける。裁判そのものの様子と、戦争当時の記録映像、占領期の映像がうまく構成されていて、裁判そのもののみならず、戦争の経緯や、東京裁判の「外側」で何が起きていたかもよくわかる。日本人必見と断じたい。

ただ、どうしても「カメラで捉えた東京裁判」という印象はぬぐえなかった。そこで、本書で補うことにした。なんといっても、裁判の表側はもとより、その裏側にあったやりとりを含めて記述されており、ドキュメントとして非常によくできている。著者自身も東京裁判を傍聴したことがあるらしいのだが、内容は、むしろ膨大な資料や証言に基づいた客観的かつ冷静なものとなっている。だが、それゆえにかえってこの「裁判」の不合理性やいかがわしさが強烈に匂い立ってくるのが面白い。

だいたい、戦勝国が敗戦国を裁くというのがまずムチャクチャである。検事はまあやむをえないとしても、裁判官はすべて戦勝国側の人間であって、そもそもこの時点でまともな裁判とは言いがたい。本当に「裁判」を行うというのであれば、本来なら裁判官はすべて中立国から選ぶべきであろう。そうではなくて戦勝国による敗戦国への制裁だというなら、裁判という「見かけの公平性」を演出すること自体に、姑息なものを感じる。

とりわけ裁判長となったオーストラリアのウェッブは、個人的にも反日感情が強いのみならず、以前に日本軍のオーストラリア人虐殺について「ウェッブ報告」なる文書を発表した人物であった。つまり、日本軍の残虐行為の摘発者を、当の行為を裁く法廷のトップに据えたのである。東京裁判は裁判長の忌避を求める動議から始まっているが、当然であろう。

さらに、被告とされたのは戦争犯罪人とされた28人の「個人」であった。国家の行為を裁くと言いながら、裁判の形式としては個人を裁くことになったのである。そのため、弁護人たちもまた「国家弁護」か「個人弁護」のいずれを重視するかに悩まされることとなった。さらに、個人弁護となれば、当然、ある被告の弁護をすることが、結果的に他の被告、あるいは国家の不利になるという場面も出てくるだろう。ただでさえ不慣れな英米式の裁判の場に立たされた弁護人たちは、相当な苦労を強いられることとなったのだ。

まあほかにもこの「東京裁判」こと極東国際軍事裁判については言いたいことは山ほどあるが、それにもかかわらず、この裁判をめぐるドラマには心を動かされる点が多い。とくに、おそらく裁判全体の中で最大の山場ともいえるのが、天皇の扱いをめぐる闘争だろう。

実は、天皇の「戦争責任」をめぐっては、ウェッブ裁判長は天皇もまた断罪されるべきと考えていたのに対して、マッカーサーの意向を受けたキーナン首席検事のほうは、天皇を法廷に引き出すことに反対していたという。いわばここでは、検事のほうは被告である日本側と同じ意向をもっており、「裁判長対検事・被告」という珍妙な図式ができあがっているのである。そのため、東条大将が天皇の責任を認めるような発言をした際など、キーナンは弁護側と一緒になってこれを撤回させようとあわてている。

もちろんその背景には、天皇は訴追しないというマッカーサー側、つまりはアメリカ側の思惑があるわけだが、このことに実は、東京裁判というもののきわめて政治的な特質が象徴的にあらわれているのだ。実際、東京裁判とは、実は裁判とは名ばかりで、実は戦勝国が互いにしのぎを削り合う国際政治そのものであったのだ。

読んでみて初めて知ることも多かった。よく知られているとおり、裁判の結果、7人が絞首刑となったのだが、実は、あれほど資質に疑わしい点の多かった裁判長のウェッブ自身は、なんといずれの被告にも死刑を適用すべきではないと考えていたというのだ。

ウェッブの個人意見は、天皇の責任を認める一方、戦犯たちに対しては「より凶悪なナチス・ドイツより重罰を科すべきではない」(下巻p.198)と考えていた。もちろんその背景にはオーストラリアが死刑を廃止しているということもあるのだろうが、東京裁判の「悪役」として叩かれることの多いウェッブが実は7人の死刑に反対していたのには驚いた。

また、この不合理極まりない裁判に対する弁護団の奮闘ぶりには、本当に感動した。特にかつての「敵国人」である日本人の弁護に立ったアメリカ人弁護士たちの熱心で強力な弁護活動には、頭が下がる。逆の立場に立ったら、果たして日本人はかつての敵国人を守るため、ここまでのことができるだろうか?

さて、ということで「東京裁判」とは何だったのか、ということになるわけだが、実は私自身、いまだによくわからないでいる。いやいや、裁判自体の経過や結論は、本書や映画からある程度は知ることができたと思うのだが、その上で、これがそもそも「裁判」なのか、あるいはそれとは異なる別のモノなのか、がいまだにつかめないのだ

しかも、仮に東京裁判が「無効」であったとすると、では日本は「あの戦争」をどう総括すればよいのか、ということさえ、今やよくわからなくなってしまっている。「あの戦争」が何だったのかを考えようとすると、いつも東京裁判が、その異様なねじくれた巨体でその上におおいかぶさってくるのだ。皮肉なことに、「日本の戦争犯罪を明らかにする」という意義をもっていたはずにもかかわらず、結果として東京裁判は、かえって日本の戦争犯罪というものを見えづらくしてしまったように思われる。

解説で佐伯彰一氏が「「東京裁判」は、日本の戦後史という肉体に深くつきささったトゲである」と書いているが、まったくそのとおりであろう。そして、そのトゲは本書の書かれた1971年どころか、それから40年以上が経った今でも、まだ抜けていないのではなかろうか。それはもはや、日本の近現代史を永久に呪縛する「呪い」にさえなっているように思われる。

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