自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1237冊目】横尾忠則『人工庭園』

人工庭園

人工庭園

横尾忠則の絵は、見るたびに落ち着かない気分になる。あまりにもいろんな要素がごってりと盛り込まれ、しかもそれぞれが強烈な主張をもってこちらに迫ってくるので、なんだかどこに焦点を合わせたらよいのか、そもそもどうしたら良いのか分からなくなる。特に、はじっこのほうで目立たずたたずんでいる小さなモチーフが妙に気になることが多い。

どうやら、絵全体をひとつの視野に収めて、ひとつの作品として眺めることがとても難しいのだ。全体の中にそれぞれのパーツが収まっているのではなく、「部分」が明らかに「全体」からはみ出している。部分の総和が全体を超えている、そういう過剰な絢爛さが、良くも悪くも横尾芸術の特徴であるように思う。

例えばこの本の表紙は、実は山口県錦町の観光ポスターとして制作されたうちのひとつなのだが(これが役所の観光ポスターというのがまたすごい)、山口県の小さな町のものとは思えない、宇宙チックで妙にアメリカっぽく、しかもノスタルジックな不思議な味わいがある。のみならず、よく見るとその中に錦鯉が泳いでいたり、右上にはムンク「叫び」があったり、右の方の黄色い光点は実はホタルだったり、宇宙トンネルの上が割れてそこから土星が覗いていたりするのである。

そのうちのいくつかは、たぶん錦町の風物を取りこんでいるのだと思うのだが、それにしてもこの絵を全体として見た時の印象と、そうした細部の存在がまるっきり異質で、そういう「部分」を見ているうちに、その存在が全体の印象をはみ出して迫ってくるのだ。そういう要素がしかも同時多発的に盛り込まれているのだから、まるで一つの絵の中に複数の絵が(単なるモチーフを超えて)組み込まれているように思えてくる。

そんな横尾作品がふんだんに盛り込まれた本書は、エッセイと絵を組み合わせて105回に渡って連載された東京新聞の「遠い視線 近い視点」の書籍化である。横尾作品の魅力と、横尾忠則という人のものの感じ方や考え方を一度に知ることができるという意味で、たいへんお得な一冊だ。採録されている絵にしても、昔のポスター作品から最近のものに至るまでがバランスよく選ばれている。

文章もまた、たいへんおもしろい。印象に残った部分はいろいろあるのだが、個人的には、模写をめぐるいくつかの文章に惹かれた。まずは「自作の複製」と題するもの。これは1966年に自分が描いた絵が行方不明となり、2002年に再制作したエピソードなのだが(「テレビ」と題するこの絵が、旧作と「再制作」作品の両方載っている)、そこで著者が感じた内容がおもしろいのだ。

自作の贋作づくりなんて朝飯前だ、と思っていた著者は、本物そっくりに描かなければならないのに、思わず「創作」してしまいそうになったという。そして、複製をそっくりそのまま作るには、「我」の放棄が必要だ、ということに思い当たるのだ。一般に、創造のきっかけとなるのはこの「我」「個人」「個性」であるとされている。しかし著者は、複製を描きながらこんなふうに思うのである。

「『我』の貫徹が西洋のやり方だとすると、東洋のやり方はむしろ『我』の放棄ではないか…(略)…元の作品に比べれば複製画は自由ではないが、ありのままに従うという複製の行為はどことなく『我』と切り離されていて、まるで大空をゆっくり飛んでいる鳥のような爽快さがあるのだ。苦心惨憺して傑作をものにしようとする意識よりも、『我』から離れて対象に没入する気分は、本能が求める本来の楽しみのような気がしないでもないのであった」(p.26〜27)

さらに、この経験の延長線上にあると思われるのが、「模写こそ絵画創造の原点」と題する文章だ。これは、著者がNHKの「ようこそ先輩・課外授業」という番組に出た時のことを書いたものである。この番組で、著者は郷里の小学校6年生を相手に美術の授業をやったのだが、その内容がものすごく興味深いのだ。

最初に、著者は全員に模写をやらせた。同じ絵を全員に「写させた」のだ。その結果はなんと「全員が驚くほど個性的な絵を描いた」(p.38)。見本を見ながら描いたにもかかわらず、そこには驚くべき観察のオリジナリティと個性的なデフォルメが働いていたのだ。そこで著者は、全員に再び同じ絵を描かせた。ただし、今度は見本を隠して、記憶だけを頼りに描かせたのだ。

その結果、生徒たちは「最初の直接的な模写作品よりも、もっと自由でいきいきした作品に仕上げた。これらの絵はすでに模写とはいえない自立した立派なオリジナル作品であった…(略)…最初の絵を頭で記憶しているのではなく、肉体がちゃんと記憶していて、ただ手を動かせば自然に指先から色や形が流れるように現れたにすぎなかったのである。このことは絵画創造の原点である」(p.38)

このエピソードにこそ、実はホンモノの「創造」のエッセンスが宿っているように思われる。日本の伝統芸能の世界には「守破離」というコトバがあるが、まさに「型を覚える」プロセスにこそ、実は型を破り、型を離れて真の創造に至る道が隠されているのであろう。そのことが絵画美術の世界にも当てはまることが、このくだりからはよくわかる。