自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1211冊目】佐野眞一『津波と原発』

津波と原発

津波と原発

【2012.10.18追記】佐野眞一については、以下の記事でずいぶん評価したが、その後言論人としての資格を自ら破棄するようなことをやってしまった。まことに残念である。当時の記録は記録としてそのまま残すが、私はもはや、この人を言論に携わる者として認めない。具体的にはコチラをご覧ください。



言葉を失った被災者と、汚れた言葉を吐く連中。震災と原発事故の後、日本人は両者の間で引き裂かれていた。避難所で無表情にうずくまる被災者をテレビで見て胸を詰まらせる一方で、津波を「天罰」と言い放った老人を都知事に選んだ。ここで起きていることはいったいなんなのか。日本はこれからどこに行くのか。

そこで著者が立ち上がった。本書の冒頭にはこう書かれている。被災者はあまりにも激甚な災害に『言葉を失った』。その沈黙を伝えるには、”大文字”の論評ではなく、ディテールを丹念に積み上げて”小文字”で語るノンフィクションしかない」(p.12)

本書は実際、声高に誰かを非難することはほとんどなく、むしろ小声でささやくように綴られている。しかしその声は、被災の現場に根を張った肉声であるだけに、深く、重い。

第1章が津波、第2章が原発事故を扱っている。津波の部分は、被災地の現状と人々の言葉を拾うことに費やされている。このままじゃ日本の漁業はダメになる、オレに船をくれ、と嗚咽する「定置網の帝王」。これまで自衛隊違憲と言ってきたが、今回ほど自衛隊を有り難いと思ったことはない、と吐露する共産党の元文化部長。圧倒的な現実の前で、建前もプライドもイデオロギーも吹き飛ばされ、生身の声だけが理屈抜きに読み手の胸にささってくる。

そして、本書の3分の2を占めるのが、第2章の原発事故。この部分、まさに著者の本領発揮である。多くの避難者や原発関係者の証言が生々しく記録されている前半部分は、第1章と似ている。なかでも、なかなか表に出てこない原発労働者の現状がすさまじい。炭鉱労働者と原発労働者を比較し、なぜ後者には「物語」が生まれないのか、を問うくだりは興味深く読んだ。

さらに、なんと著者は、日本の原発政策の黎明期にまでさかのぼって、重層的に今回の事故の背景をたどっていく。かつて『巨怪伝』で原子力の父と言われた(ちなみにテレビの父、プロ野球の父とも言われている)怪物・正力松太郎を、『東電OL殺人事件』で東電の暗部を調べ尽くしてきた著者ならではの奥行きのあるリポートは、まさに本書の白眉。今回の事故が「人災」であるという本当の意味が分かる。

いまさら日本の原子力政策をどうこう言っても始まらないと思うが、それにしても、唯一の被爆国であるはずの日本で、原子力発電に関して、ここまで粗雑で結論ありきの議論しかなされていなかったという事実には、やはり背筋が寒くなる。原子力政策を牽引した正力が核燃料を「ガイ燃料」と読んでしまう程度の「素人以下」の科学知識しか持ち合わせていなかったこと、東電が反対派を「共産党」とひとくくりにして黙殺し、地元町村に対しては接待漬け、補助金漬けで理屈抜きに懐柔してきたこと、そして福島県で使われているのは東北電力の電気であり、福島の「原発銀座」は東京へ電気を送るために存在していたこと・・・・・・。

「そこ」で起きていたことは、著者の指摘するとおりまさに「知的退廃」そのものだ。その範囲は政治家から官僚、メディア、電力会社、そして知らんぷりを決め込んで原発の利益だけを享受してきた国民全体にも及ぶ。この問題では、すべての日本人が、傍観者でいることを許されない。

中でも、やはりキーパーソンは正力松太郎だろう。なんといっても、天皇まで引っ張り出して原子力の「平和利用」キャンペーンを打ち、読売新聞を日本最大のメディアに引き上げて大々的な原発翼賛プロパガンダをまき散らした(そういえば、今回の原発事故に関して、読売新聞社はかつての推進役・洗脳役としてどういう総括を行ったのだろうか?)希代の「興行師」である。ちなみに、プロ野球を国民的スポーツに「格上げ」して自身の導入したテレビの中で展開したのも正力だった。著者が言うように、われわれはいまだに「正力の掌の上にいる」のである。著者は続けてこう語る。

福島第一原発が今回引き起こした重大事故は、私たちがそうした巨大な正力の掌から脱することができるかどうかの試金石となっている」(p.175)

本書は、確かに現場の肉声と地続きの「小文字のノンフィクション」である。しかし、その射程はきわめて広く、その洞察はきわめて本質的な、欲望を肯定し、拡張してきた日本の戦後史そのものへの問いかけに及んでいる。凡百の薄っぺらな「震災本」「原発本」とは一線を画する、迫真の一冊だ。