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自治体職員の読書ノート

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【1196冊目】『ちくま日本文学004 尾崎翠』

尾崎翠 (ちくま日本文学 4)

尾崎翠 (ちくま日本文学 4)

じつは、尾崎翠を読んだのは本書がはじめて。しかも、いきなりのフルコース。「こおろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」「歩行」「第七官界彷徨」「山村氏の鼻」「詩人の靴」「新嫉妬価値」「途上にて」「アップルパイの午後」「花束」「初恋」「無風帯から」「杖と帽子の偏執者」「匂い」「捧ぐる言葉」「神々に捧ぐる詩」が文庫本一冊に収められ、デザートは矢川澄子の絶品解説。これで1,000円払えばお釣りがくるのだから、実にお値打ちな一冊だ。

読んですぐ感じたのが、文章のなかにただよう独特の空気感。ちょっとした表現や描写に独特の浮遊感覚があって、まったくの別世界に連れて行かれるというよりは、現実と薄皮一枚へだてた感覚世界にトリップするような感じだった。それこそ「第七官界」ではないが、今まで使ったことのない感覚器が、ぴりぴりと震えるような小説世界。

特に、じんわりとしみこむように漂っているのが、独特の兄妹感覚。異性のきょうだいの間にある、他の人間関係には見られない微妙な関係性が、微妙なままにふんわりと描写されている。近親相姦的というほどロコツではなく、もっとひそやかで切なくて甘酸っぱい。こないだ読んだコクトーの『恐るべき子供たち』の姉弟関係もすごかったが、あそこまでどぎつくない。むしろ、表面上は微妙に距離感を測りつつ、一番深いところで密接に結びついているようなところがある。

「無風帯から」では、口を利かないで無関心を装っている兄妹の実は相思相愛な関係が描かれ、戯曲形式の「アップルパイの午後」では、口喧嘩ばかりの兄妹なのだが、ラストのアップルパイの暗示ですべてがひっくり返る。もっと妙なのは「初恋」で、これは盆踊りで見かけた女性の後ろ姿に初恋を感じ、後を追って顔を見ると、なんとそれは自分の妹なのだ。

著者の代表作「第七官界彷徨」もまた、兄妹感覚に満ちている。語り手の「私」は、分裂心理学者の長兄と、家の中で肥料研究をしている次兄の妹であり、音楽受験生の三五郎がいとこなのだ。そしてそんな中で「わたしはひとつの恋をしたようである」と、冒頭で暗示されるのだから、読み手はなんとなく、家の中の兄妹関係・いとこ関係の中に、恋の匂いを探りながら読むことになる。

とまあ、そんなことをふわふわと感じながら読み終わったわけだが、矢川澄子の解説「二人の翠をめぐって」を読むうちに、また別の考えが浮かんできた。この解説、要は作者としての尾崎翠と、作中の小野町子(「第七官界彷徨」の語り手)の分身性を論じつつ、翠≒町子の「分身」ならぬ「分心」の可能性にまで分け入っていくのだが、その中で「一人の肉体に共棲する二つの魂」について論じている。

この「一身体・二精神」の典型例は、「こおろぎ嬢」に出てくる英国の作家ウィリアム・シャープとその裡にいる女性作家フィオナ・マクラウドであろうが(「新嫉妬価値」の耳鳴りもこの「分心感覚」だろうか)、この解説を読んでいると、どうもそれだけではなく、著者の兄妹感覚とは、ひょっとしてこの、同じ肉体にあるふたつの魂、という精神のありようと、きわめて近いものなのではないか、と思えてくるわけなのだ。

つまり、著者にとって兄妹というのは、まったく別個の異性というよりも、一種の分身=分心なのではないか、という気がしたのだ。あたかもウィリアム・シャープ氏が自分の中に棲む詩人マクラウドに恋文を送るように、妹は自らの半身として兄を慕い、兄も自らの半身として妹を愛するのではないか。だからこそ、著者の描く兄妹感覚は、どこか淡く感覚的なのではなかろうか。

実は私にも1歳下の妹がいるが、正直、全然こういう関係というか、感覚をもったという覚えがない。だが、ひょっとするとある時期、そういうシャム双生児のような奇妙な感覚をもっていたのかもしれない、と思う時はある。この感覚、未知の記憶のように、どこか奇妙に懐かしい。

恐るべき子供たち (光文社古典新訳文庫)