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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1189冊目】ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』

幼なごころ (岩波文庫)

幼なごころ (岩波文庫)

私には8歳と5歳の子供がいるのだが、特に8歳の長男を見ていると、昔の自分をやたらに思い出す。加えて、当時を思い出すきっかけになってくれるのが、当時読んだ本だ。子供向けの本を探して図書館の児童書コーナーにいると、懐かしい本にしょっちゅう遭遇する。パラパラと頁をめくると、思いがけない当時の思い出やら、記憶というほどはっきりしたものじゃないが、漠然とした当時の感覚がよみがえってきて、戸惑うことも多い。子供がいない方も、たまには児童書コーナーを覗いてみるといい。自分の幼なごころに出会えます。

しかし、本書はまったく初めて読んだにもかかわらず、かつて読んだ本以上に自分の子供時代を想起させてくれた。それも、具体的なエピソードではなく、その時の痛々しさとか、無邪気な遊びごころとか、せつない気持ちとか、そういう感情の襞にまで分け入ってくるような感じなのだ。読んでいて、快い不意打ちを食らった気分だった。

本書は本編8つと補遺2編で構成されており、本編は、少年を主役にした4篇、少女に焦点をあてた4篇に分けられる。「少女モノ」のほうは、女の子の気持ちという、私にとっては未知の世界を描いていて、それはそれでとても新鮮なのだが、やはり自分の「幼なごころ」を刺激したのは、少年モノの4篇。

特に、ジイドに捧げられ、プルーストが絶賛したという「包丁」が、さすがの絶品。8歳のミルーと女友達のジュリアは、貧しい私生児のジュスティーヌをいじめてやろうとするのだが、ミルーはジュスティーヌを見るや、一目で甘酸っぱい恋心を抱いてしまう。そして、ジュスティーヌの左手に包丁の傷痕があるのを見て、自分も同じ場所に傷を負うことを決心して、誰もいない台所に忍んでいく。

「包丁はまさに流しのそば。木の棚板にかかっている。ミルーはその流しに左手を平らに置く、指を全部開いて。かつてジュスティーヌが怪我したのは薬指だ。ミルーは狙いを定め、右手に握りしめた包丁のバランスをとり目を閉じる」(p.70)

しかし当時の社会で、名家の跡継ぎであるミルーと、貧しくみすぼらしいジュスティーヌが結ばれる可能性はほとんどない。ミルーもそれが分かっていて、だからこそ包丁を自らの手に下ろすしかなかったのだ。その小さな恋心の、なんという痛々しさ、なんというせつなさ。冒頭で書いたとおり、ウチにも8歳の息子がいるが、同じ8歳とは思えないぞ。

ちなみに本書の「訳者あとがき」(この「あとがき」は秀逸)は、ジュスティーヌとジュリアを、マルキ・ド・サドの「美徳の不幸」のジュスティーヌと「悪徳の栄え」のジュリエットに重ねており、びっくりした。もっとも、本書には他にもいろいろな文学上の「仕掛け」が施されているらしい(全然気づかなかった)。

「包丁」のことばっかりになってしまったが、少年モノでは他にも、マントルピースの上の壁の模様に「顔」を見つける「《顔》との一時間」、子供たちの無邪気な遊びを叙事詩風に延々と綴った「偉大な時代」、思春期のとば口特有の背伸びしたい気持ちを描いた夏休みの宿題があり、いずれも「分かる分かる」と思いつつ、なんとも懐かしい。まあ、いくら背伸びがしたくても、さすがに私は10代前半でライプニッツの「単子論」を読もうとは思わなかったが。

自分もかつては子供だったことを思い出させてくれる本は、なんともありがたい。そういうことがなければ、当時のことなんかすっかり忘れて、昔から大人だったような顔をしてしまいそうだから。もちろん、子供ならではの純粋な悪魔性とか、焼け付くような嫉妬とか、そういうダークサイドもしっかり描かれている。かつては子供だったことを忘れてしまったすべての大人のための、絶品の一冊。