【1183冊目】赤坂憲雄編『東北ルネサンス』
- 作者: 赤坂憲雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2007/08
- メディア: 文庫
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「東北」をテーマにした対談集。東北学のエキスパートである赤坂氏がホストを務め、ゲストには五木寛之、中沢新一、谷川健一、高橋克彦、高橋富雄、井上ひさし、山折哲雄という超豪華メンバーを揃えている。
もちろんどのゲストも、東北について一家言をもっているのだが、そのすべてを受け止め、包み込む赤坂氏の懐の広さが素晴らしい。ゲストの語りを十分に引き出しつつ、自らもそれ以上に語り倒し、論じ尽くす。そこからあふれ出してくる東北論の豊かさは、そのまま東北という地域がもつ無尽蔵の可能性なのだろうか。
もちろん本書は、震災前に刊行された一冊。しかし、今になって読むと、あらためてその価値が分かる。東北の復興は、何かまったく新しいものをつくるのではなく、まずは「ルネサンス」でなくてはならないのだ。そしてそのためには、僻地としてさげすまれ、イナカとしてバカにされてきた東北の意味を、まずは捉え直さなければならない。
本書にはそのためのヒントがぎっしり詰まっている。いろいろ感銘を受けた部分はあるのだが、ひとつ挙げるなら、「縄文文化」の継承者としての東北の重要性、という見方が印象的だった。
縄文時代というと、私は恥ずかしながら弥生時代に先立つ原始的な時代程度にしか考えていなかったのだが、実はそれ自体がたいへんすぐれた文化を有し、ある意味で弥生時代と拮抗するような文化だった。しかも、その要素は今も色濃く日本の中に存在している。
そして、その強力な担い手となったのが東北であった(青森県の三内丸山遺跡などを想像していただきたい)。特に、自然と一体となり、自然と共に生きるという縄文−東北のメンタリティは、今こそ見直されるべきであろう(本書には宮澤賢治の作品が多く引用されているが、賢治の作品がいかにそうした「縄文精神」の系譜を継いでいるか、読んでいると思い知らされる)。
では、各章で対談者が語っていた印象的な言葉を、少し引用してみる。短文だが、彼らの「東北語り」の香りを少しでも感じていただければ幸いである。
「僕は、東北という視点に立ってものを見るときに、何か大きな宇宙的なものを感じるときがあるんですね。日本国というものを超えているような気がするんです」(五木寛之)
「東北の縄文社会というのもたいへんに豊かな世界ですから、ここでは国家が生まれてもおかしくない条件がみんなそろってあるのにつくり出さない。ここにはひとつの思想があったはずです」(中沢新一)
「アイヌ語を捨象すれば、これを剥離してしまえば、東北という存在がなくなるぐらいに、アイヌ語の地名が東北の北三県に入り込んでいるんです」(谷川健一)
「ああそうか、蝦夷は血とか民族じゃなくて、これは東北の土地という風土が拵えるものかもしれない」(高橋克彦)
「ヤマトの国は西日本を代表した国で、日高見国は漠然とした形で東の独立国、いわゆる蝦夷の国ということでした。それを一本に合体することによって統一日本国家が成立するという考え方であるならば、歴史的にまことに自然なことです」(高橋富雄)
「こうやって頭の中の実験だけでも、我々一人ひとり、日本の国から独立して自分の国をつくれるぞということをどこかに置いておかないと、また兵隊よこせ、女工さんをよこせ、女郎さんをよこせ、出稼ぎをよこせと言われ続ける東北になってしまうのではないか」(井上ひさし)
「そういう多神教的なものを日本列島のなかで、いま、一番濃厚に残しているのはどこか。それは東北だろうという気がします」(山折哲雄)