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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1173冊目】阿部謹也『読書力をつける』

読書力をつける (知のノウハウ)

読書力をつける (知のノウハウ)

「知のノウハウ」というシリーズ名といい、装丁の雰囲気といい、いかにも中身ペラペラのビジネス書といった風情が漂っているのだが、内容はかなり骨太の本格派(つまり、装丁がマズイということなのだが)。うんうんとうなずく部分もあったが、ボロボロと目からウロコが落ちまくる部分のほうが多かった。とにかく、自分の中で「読書」に関してぼんやりとしか認識していなかった点、曖昧だった点がかなりはっきり見えてきたのが大きな収穫だった。


ただし、本書を「本を読む」行為そのものに対するノウハウだと思うと、ちょっと肩すかしを食うかもしれない。なにしろ、本書の冒頭で、著者はこのように宣言しているのだ。


「『読書』とは『書を読む』ということですが、本書では『書物を読む』ことだけを読書論の対象にはしないということをお断りしておきたいと思います。」(p.26)


「『書物を読む』以外の読書なんてあるの?」と思われる人も多いのではないだろうか。しかし、著者は別に、書物を読まないなんて言っているのではない。書物を読むということそれ自体に焦点をあてるだけではなく、もっと広い視野、広い射程の中で考えようとしているのだ。


それを著者は「人を読み、世界を読む」という。これは実は、さっきの引用と同じことを言っている。なぜなら、世界は基本的に「人」によって構成されているからだ。世界を読むことを通した読書論。これが第一のポイントだ。


では、世界とは何か。そこで次に問題となってくるのは、自分と世界との関係だ。ここもまた、著者の明晰なコトバを引用させていただきたい。手抜きですんません。


「世界が広いか、狭いか知らないけれども、自分のかかわっている限りでの世界があるわけだから、それを対象化して距離をおいてとらえるのではなくて、自分もそのなかにあるものとしてとらえる方法が必要となります」(p.26)


「『世界』は自分の外にあるものではない、ということです。『世界』は自分のなかにあるものです」(p.27)


ここが本書の「キモ」となる。分かりやすい文章なのでスラスラ読めてしまうのだが、この思考はすばらしい。さらに、次のページで著者は「『世界』というものは自分のなかにくい込んできているものです」とも言っている。私が本書で一番大きな「ウロコ」を目から落としたのは、本書冒頭のまさにこの部分だった。


自分と世界を切り離してはならない。そして、それはすなわち、自分と読書を切り離してはならない、ということでもあるはずだ。言われてみれば確かに、自分に「根」を持っている読書ほど、忘れがたく、その内容が自分の血肉になっている。自分と離れたところで「必読書だから」「古典だから」と読む本は、結局のところ、自分に定着することはない。著者はこう言っている。


「自分が、いま一番『焦眉の急』と思っている問題、自分にとって一番切実な問題、そういう問題をとおして世界を読む」(p.30)

「世界を読むときに、読む主体は自分なのですから、自分の考えから出発して、自分の感性を大事にして、そこから始めることが大事だということを私は言いたいだけです」(p.30)


自分を勘定に入れた世界解読法。この考え方が本書全体の根底にある。本書はここを起点にして、読書の歴史(音読から黙読へ、精読から多読へ、など。ここは単なる読み物としてものすごく面白い)、現代「教養」論(個人と集団が結びつくなかで生き方を考えるのが教養だ)など、著者一流の世界読書術へとどんどん展開されていく。中で興味深かったのは、ヨーロッパで「懺悔」と「告解」が「個人」を生むきっかけになったという指摘、日本ではそれとは違って「世間」というものが大きな位置を占めているという考え方。個人というものがアプリオリに存在するのではなく、西洋における歴史的な事情の中で「形成」されてきたことが良く分かる。


他にも本書にはご紹介したい記述やエピソード、考え方が満載なのだが、書き切れないのでこのへんでやめておく。一言だけ最後のダメ押しをするなら、世に「羊頭狗肉」の本はいくらもあるが、本書は世にも稀なる「狗頭羊肉」の一冊である。少なくとも、私はたいへん気に入りました。