自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1172冊目】小出裕章・西尾幹二・佐藤栄佐久・桜井勝延・恩田勝亘・星亮一・玄侑宗久『原子力村の大罪』

原子力村の大罪

原子力村の大罪

このあいだ読んだ『いつか、菜の花畑が』が「涙」の一冊だとすれば、本書は「怒り」の一冊である。

地震津波は天災だが、原発事故はまさしく「人災」であった。いや、「事故」などという言い方すらなまぬるいかもしれない。そこで起きたのは、東京電力という「産」、経済産業省という「官」、そこに御用学者たちの「学」ががっちり組み合わさった(そこに批判能力を欠いたマスコミや、中曽根康弘をトップに多くの政治家がぶらさがった)、まさに「産官学」による犯罪であった。おそらく後世の人々は、チッソと旧通産省による水俣病ミドリ十字と旧厚生省による薬害エイズなどと同じ構図による犯罪的行為として、今回の福島第一原発事故を位置づけるのではないだろうか。

おっと、少し先走ったらしい。本書は原子力発電や「福島」に深くかかわってきた人々による、産官学による「原発マフィア」への告発の書であり、同時に、今回の「事故」の真の意味を理解するための必読の一冊でもある。原発の設置や管理、とりわけ危機管理の状況がどれほどお寒いものであったか、今回の「事故」がいかに必然のものであったか、本書を読めば一目瞭然。「死のまち」と現地を表現した大臣がバッシングされて辞任したが、彼よりはるかに辞任に値するたくさんの人々が、いまだに「原子力村」の中でのさばっていることも、よくわかる。

原子力の専門家でありながら、40年にわたり原発反対を貫いてきた小出裕章は、原発の危険性と不要性両方の側面から、原発のあり方を論じている。その論理は明快で、主張には一本芯が通っている。どこぞの御用学者とは違う、ホンモノの「学者」の矜持を感じる。また、8月に行われた福島での講演会の記録も収められているのだが、福島の人々がどれほどの不安とストレスの中にいるかが読むほどに伝わってくる。胸が痛い。

「仮に日本にある原発の全てを停止したとしても、火力発電所の「設備稼働率」を七割にまで上げれば十分賄えるのです。逆にいえば、原子力発電所を全て停止したとしても、まだ火力発電所の三割を停止させられるほどの余力があるのです。『原発がなければ電力不足に陥る』というのは、幻想にすぎません」(p.40)

「政府や一部の学者と呼ばれる人たちは、原発事故以後『被曝量が大したことはないから、安全だ』、『ただちに影響はない』と繰り返してきました。しかし、そのようなことは科学的には到底許されない発言です。どんなに微量でも危険であるということを認識しなければいけないというのが現代の科学の到達点なのです」(p.51)

保守派の論客として知られる西尾幹二は、自衛隊にとって戦争を「想定外」とする発想と、原発にとって事故を「想定外」とする発想を同根であると指摘し、そこに日本の根本問題をみる。それは「守る」ことへの欠如であり、危機管理の不存在である。「考える」ことさえもアメリカ様に依存し、自らの国家のことを自らのこととして考えてこなかったツケが、今になってやってきているのだ。

原発にとって、事故は「想定」してはならないものでさえあった。さもなければ、官僚機構のど真ん中にある原子力安全・保安院のこれほどの間抜けぶりは考えられない。最悪を「想定」するところから物事をはじめる、という考えがまったく育っていない。企業人だけでなく、官僚も、学者も、政治家も、文明の永遠の存続を前提として、その裂け目から、文明が破壊された廃墟をあらゆる想像力を駆使して覗き見るということをしていない」(p.76)

福島県知事の佐藤栄佐久は、在職時から一貫して東電に不信感をもち、原発への危惧を持ち続けてきた。その結果が検察による「国策捜査」であるかどうかは断言できないが、原発推進を至上命題とする東電自民党経産省にとって、相当にジャマな知事であったことは想像に難くない。本書では、その時の東電の不誠実きわまりない対応ぶりが、セキララに語られている。

「私は福島県知事として十八年間、原発対策に取り組んできました。その経験を踏まえてはっきりと言えることは、この度の事故は地震津波という想定外の『天災』による事故などではなく、国(経産省)と東京電力不作為による『人災』だということです。地震津波にすべての原因をかぶせ、原発事故の責任を転嫁させてはなりません」(p.100)

Youtubeで世界中に南相馬市の危機的状況を訴え、一躍「TIME」誌で「世界で最も影響力のある100人」のひとりに選ばれた桜井勝延市長は、現場の想像を絶する混乱と苦悩を語る一方、事故後の東電と国の対応を強く批判する。特に東京電力は、加害者としての自覚を欠いた不誠実な対応に終始している。印象的だったのは、東電のていたらくに比べて、東北電力の社員がすぐに市の現地対策本部に入り、ライフラインの復旧等に力を尽くしてくれたこと。同じ電力会社でこの違い、いったい東京電力というのは何なのだろうか。

「3・11以降、南相馬市民の人生は大きく狂わされました。これまで普通に会社に勤め、家庭生活を送り、あるいは農業を自然とともに営んで、子供たちを育て、老父母と暮らしてきた生活がすべて壊されました。非日常が五ヵ月以上も続いている現状を想像してみて下さい。避難所で被災された市民の目をみると、ほんとうに言葉も出てこなくなります。私は市長として、南相馬市民に『謝っても謝りきれない』心境です」(p.142)

35年以上にわたり福島県浜通りの「原発銀座」を取材してきたジャーナリストの恩田勝亘は、原発マネーで自縄自縛に陥り、原発依存状態になった町の異様な光景を記録する。原発への批判どころか、疑いをさしはさむことさえ許されない。批判派集会では車のナンバーや出入りする顔をチェックする者がいる。村の人々は彼らを「東電CIA」と呼んだという。

原発があってこその町になるほど、地縁、血縁さまざまな人間関係への配慮から東電に不都合なことについては、雇用主から直接言われる場合もあれば、自ら口にチャックする。結果、城下町として特異な空気が醸成されていく。それが続くとどうなるか。
チェルノブイリ事故のあと、それを知っていた生徒は2〜3人でした』」(p.165)

幕末の会津藩を扱った作品をいくつも書いてきた作家の星亮一は、事故後の避難者たちの生活ぶりに、東北の痛切な歴史を重ね合わせる。その結果見えてきたのは、まさに「棄民」すれすれの、昔と変わらぬ見捨てられた人々の姿であった。政府が手をこまねき、東電不作為を続ける中で、福島は刻一刻と崩壊しつつある。県外脱出した人々は3万人を超えたそうである。

「年配者は避難所暮らしに甘んじているが、30代から50代の人々は、とても耐えられない。ここにいても未来がないからである。
 妻子を抱え、これからどのようにして生活するか、深刻に悩み苦しみ、仕事を求めて次々に福島県から脱出を図っている。国も県も被災者の未来については一言も触れてはいない」(p.180〜181)

僧侶であり作家でもある玄侑宗久は、福島県三春町に居を構える。そこから自身のウェブサイトに震災情報を発信し続け、とりわけ原発事故をめぐる国や東電の対応をリアルタイムで報告し、批判を加えてきた。野菜の放射能汚染の問題、流された寺や神社の問題、空振りになった仮設住宅の問題など、どれも作家ならではのするどい舌鋒のなかに、国への怒りと、福島の人々へのやさしいまなざしが同居している。この人が復興構想会議に加わったのは、大きかった。ぜひこれからも暴れまわっていただきたいのだが、さて、どうか。

「世界は東北地方から『明るい諦め』を学びつつある。
 日本だけがまだそれを学ぼうとしていない」(p.206)

読むほどに腹が立ち、その勢いでずいぶん長くなってしまった。まだまだ書きたいことはあるのだが、いったんはこの本に預けたい。マスコミの提灯記事にあきたらず、さりとて不安をあおるだけの週刊誌にもヘキエキしている方々におすすめしたい。

※敬称略。また、引用文中の「」を『』に変更しております。