【1147冊目】浅田次郎『中原の虹』
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『蒼穹の昴』の続編。清朝末期から辛亥革命、袁世凱の「中華帝国」の終わりあたりまでを扱った大長編だ。史実とフィクションがボーダレスに入り混じりつつ、近代中国をめぐる壮大なドラマを描き出している。といっても、10年以上前に読んだ『蒼穹の昴』は、案の定、内容をすっかり忘れており、「春児」という名前くらいしか記憶には残っていなかった(そういえば、その後日談を扱った『珍妃の井戸』も読んだはずなのに、こちらはほぼパーフェクトに忘れていた。なんてこった)。
ということでほぼまっさらのところから読み始めたんだが、冒頭、張作霖と李春雷が龍玉を入手するくだりで、のっけからいきなり引き込まれた。なんといっても張作霖がカッコイイ。馬賊の頭目で、のちに列車ごと爆殺されたことくらいしか知らなかったが、小説ではとんでもない大英雄に描かれている。とりわけ痺れたのが「鬼でも仏でもねえ、俺様は張作霖だ」のセリフ。いいね〜、こういうキャラ。「俺様」って一人称、久々に聞いた。
さて、張作霖が小説のひとつの極だとすれば、前半、もうひとつの極をなすのが清朝の最期を彩った女傑、西太后。一般には悪いイメージで描かれることの多い西太后が、本書では、あえて「悪」を演じた(演じざるをえなかった)ことで必死に中国を守った存在として、かなり好意的に描かれている。張作霖とはまったく違うが、これもまたある意味、英雄であろう。とにかく1巻から2巻までは、この二人の「英雄」が圧倒的な存在感を放っている。
その均衡が崩れるのが、西太后崩御後の第3巻あたりから。いわばふたつの極をもつことで安定した楕円構造をかたちづくっていた小説世界が、一方の極が失われることで、急激にバランスを崩したような感じかな。西太后の後継として描かれているのが、強いて言えば袁世凱であろうが、やはりその魅力と存在感は比べるべくもない。宋教仁もその凄みを見せる間もなく暗殺される。結局、西太后の穴を埋めるキャラが登場しないまま、中華側はすっかりガタガタになってしまう。そうなると小説というのは不思議なもので、張作霖の存在が妙に浮いてきてしまうのだ。
まあ、そうした小説としての「つくり」の問題はともかく(史実をベースにしている以上、手練の作家浅田次郎としても、おそらくこれしかなかったのだろうと思う)、本書を通じて、清朝末期〜袁世凱の中華帝国あたりまでの、複雑極まる中国近代史のイメージが作れたのは収穫だった。特に、孫文の辛亥革命からなぜ袁世凱の権力奪取に至るのか、そのへんの道筋はいままでよく見えていなかったのだが、本書を通して少し脈絡が見えてきた気がする。
それにしても、中国を語るのに異民族、特に「北」と「西」の動向は欠かせない。それは始皇帝が万里の長城を手掛けた古代から、満州に馬賊が暴れまわった近代まで続くものなのだろう。ひょっとすると、現在のウイグルやチベットへの中国政府の「仕打ち」も、そうした文脈から見直すべきなのかもしれない。そんなことを、読み終わってからふと思った。それと、やはり気になるのは、西太后とはいったい何者だったのか、ということだ。ひょっとすると清朝末期、西太后こそが中華そのものであったのではなかろうか。そんな気がしてならないのである。