自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1138冊目】莫言『蛙鳴』

蛙鳴(あめい)

蛙鳴(あめい)

その土地で生まれた連中は皆、身体の一部を名前にもつ。主人公の本名は「万足」で、自らは「オタマジャクシ」と名乗る。他には、王肝、王肝、陳鼻、陳耳……。しかも万足の二人目の妻は「ちびライオン」とくる。著者は「中国のマルケス」と称される作家。冒頭には曽祖母から始まる家系図がついている。

これは「中国版『百年の孤独』」か、中国を舞台にしたマジックリアリズムか、と予測しつつ、読み始めた。もちろん、著者がそのモチーフを借りていることは疑いない。ただし、本書の舞台は架空の村マコンドではなく、現実の中国。しかも、主人公が日本人の「先生」に宛てた手紙という形をとりつつ、その中で自らの過去(1950年代以降)を綴るという、やや複雑な構成になっている。もっとも、後から考えれば時系列が少しややこしいな、と思える程度で、読んでいる間は、そのへんはそれほど気にならない。

ガルシア=マルケスが「南米的リアリズム」を追求したとすれば、本書で莫言が描いたのは、現代中国のリアリズムであろう。なんといっても本書のメインテーマは、中国の「計画出産」政策なのだ。日本では「一人っ子政策」として知られるこの計画は、国家が国民の産児数を制限するという前代未聞の社会実験だった。

爆発的に増える中国の人口を人為的に抑制するというこの試みは、本書の「訳者あとがき」によれば、2009年時点で年増加率0.5%と、政治的には「成功」を収めている。しかし、それは統計上の「数値」にすぎない。では、中国の国民にとって、この未曽有の計画はいかなるものだったのか。そのリアルな実態を、私はこの小説で初めて知った。

主人公の村で計画出産の主導役になるのは、産婦人科医でもある主人公の伯母。しかし、そこには親戚の情はみじんもない。主人公の最初の妻、王仁美が二人目を妊娠してしまい、堕胎を迫る伯母から逃れるため実家に隠れると、伯母はなんと、その家の両隣の家を壊そうとする。そして、その損害は王仁美の父親が負担せよ、というのである。家を引き倒そうとするトラクターの前で、伯母はこう言い放つ。

「これが道理にもとることは承知していますが、小さな道理は大きな道理に従わねばなりません。大きな道理とはなんでしょうか。計画出産で人口を抑制することは大きな道理です。わたしは悪役になることを恐れません。いずれ誰かが悪役にならねばならないんだわ。みなさんがわたしのことを死んでから地獄に堕ちろと呪っているのも知っています。共産党の人間はそんなことは信じません。徹底した唯物論者に恐れるものはないのです! たとえ地獄があっても、わたしは恐くありません! わたしが地獄に堕ちないで、誰が地獄に堕ちるというのです!」(p.187)

このような言葉を吐く人間に、いったいいかなる説得が通じるだろうか。結果、王仁美は出てこざるをえなくなり、強制的に堕胎手術を受けさせられる。しかもなんと、手術は失敗。彼女は出血多量で死んでしまうのだ。

本書では、こんな悲劇が数限りなく繰り返される。親族であろうが何であろうが、伯母は党の命令を冷酷に実行する。しかし、その伯母もまた、心の中は引き裂かれているのである。本書の終盤、伯母はたくさんの泥人形を作っている。それはすべて、自分が命を奪った子どもたち、生まれてくるはずだった命の「形代」なのだ。そして伯母は、泥人形ひとつひとつが、どの家の何という親のもとに何年何月に生まれる予定だった子どもの代わりなのか、すべてそらで言えるのだ。

その痛々しさ、その哀しさは、おそらく計画出産や、あるいはその前の文化大革命に携わった多くの中国国民が、お互いに被害者でもあり加害者でもあった痛切な歴史として、その身に多かれ少なかれ背負っているものであるような気がする。近代中国の背負ったこのような「負」の大きさ、重さは、われわれにはなかなか想像がつくものではない。

このテーマはこれまで、中国ではタブーだったという。本書はそんなタブーを打ち破り、その重荷の一端をあらわにした小説だと感じる。だからといって、本書は決して深刻一方の小説ではない。重層的で、複合的で、骨太で、ユーモアとペーソスがたっぷりで、しかも強烈な推進力とエネルギーを秘めている。はっきりいって、小説としてムチャクチャ面白い。

そして、本書のような小説が出版をゆるされたということは、恐らく今後、中国の現代文学は注目だ。計画出産や、特に文化大革命の「日々」を内側から綴った小説が、これからどんどん出てくるのではなかろうか。楽しみに待ちたい。