自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1098冊目】ポール・ラファルグ『怠ける権利』

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

警告。これは「危険な本」である。そこらのエロやグロなど比較にならないほどの「毒」が、本書にはたっぷりと仕込まれている。ご注意を。

さて、本書は、もともと19世紀フランスの労働者が掲げた「一八四八年の労働の権利」への反論として書かれたものらしい。確かに産業革命下の悲惨な労働環境や機械化が取り上げられているが、内容は現代にも通用する……というか、むしろ現代人こそ読むべき本。なぜなら、現代ほど「労働の価値」が無条件に信奉されている時代は少ないからである。

本書に従い、以下は社会主義共産主義の語法で書いていくが、かつて、額に汗して働くのは「プロレタリアート」(労働者)であった。資本家「ブルジョワ」は、働かずしてその果実を手にし、一方で働くプロレタリアートたちは、生存ぎりぎり(あるいはそれ以下)の条件で徹底的に絞り取られた。そんな状況をプロレタリアートの側から分析し、プロレタリアートが中心となる社会主義を構想したのがマルクスエンゲルスであったのだが(ちなみにラファルグはマルクスの娘婿)……しかしマルクスらも、プロレタリアートが「働かなくてもよい」とまでは言わなかった!

共産党宣言」以後、起きたことはむしろ働かないブルジョワへの非難であり、働くことの価値は称揚こそされ、否定されるなどとんでもないことだった。「働かざるもの食うべからず」とは新約聖書をもとにレーニンが放った言葉だというが、まさにそのレーニンが立ち上げたソ連は、結果はともかく当初は「プロレタリアートの国家」として構想された。その中で「働くな」「怠けろ」と叫ぶ本書はむしろ異質な存在であり、社会主義の側から発せられたにもかかわらず、当の社会主義者からも黙殺される憂き目にあった。

そして現代もまた、「働かざる者食うべからず」が当然のこととして言われている。ニートが非難され、長時間労働が(いまだに)評価され、仕事の中に「生きがい」を見出すことが当たり前のようになっている。しかし、それは本当に「正しい」ことであろうか? それは実は、労働しなければ食べていけない状況への言い訳であって、自分の長大な労働時間を正当化するための論理にすぎないのではないか? そんな従順な「労働者」こそが、経営者にとって最も使いやすい賃金奴隷であることに、「あなた」は気づいているだろうか?

そんな「問い」を、本書はえぐるように次々とこちらに投げつけてくる。「仕事が生きがい」なんてことを言う人ほど、本書は黙殺したくなる「毒書」になるだろう。そしてまた、そんな羊のような労働者を重宝している経営者にとっても、本書は危険な存在だ。なぜなら、それは都合よく働かせられ、都合よく捨てられる便利な「賃金奴隷」たちに、ある種の真理を気づかせ、目覚めさせる可能性をはらんでいるからだ。

時は産業革命期。機械化はさまざまなモノの生産量を飛躍的に拡大させたが、それは人々の生活を楽にはしなかった。むしろ人々は、女性も子どもも機械に追い立てられるように一日14時間働き、わずかなパンを得るだけで、夜は不潔で狭い住宅に帰って泥のように眠るだけであった。そして生み出された莫大な生産物は、国内だけでさばくことができず、そのための活路が植民地に求められた。資本主義と植民地主義はいわば同義であった。

植民地ではそうした生産物が押しつけられ、その引き換えに、さらに生産するための材料が持ち出された。いわば生産が先行し、消費はそのための「後付け」であった。当面必要とされていないモノを生み出すために、人々は死ぬ寸前まで働かせられ、倒れるとそのまま路傍に放置された。

このことを過去の物語として読むのは間違っている。今もまた、国内で必要とされる以上のモノが生産され、それを売りつけるためのターゲットが「後付け」で探されている。過剰生産と過剰消費のサイクルが確立し、それは必然的に過剰労働を伴う。生み出されたモノは次々にゴミとなって捨てられ、一方では膨大な原料が新たなモノを生みだすために使われ、失われている。何のために? 「会社」の利益を生みだすために。そして今や、特に大企業の内部留保利益は空前の規模に達する一方、労働者はその利益の「おこぼれ」をもらい、かつかつで生活している。

この過剰なサイクルの中で馬車馬のように働き続けることのどこに「仕事の意義」があるのだろうか。それが今も存在する「資本家(経営者)」の都合のよい理屈にすぎないことに、いい加減に気づかなければならない。勤労の義務は憲法に規定されている。しかし、それは今のように過剰な労働を意味しているのだろうか?

働かなくてよいといっているわけではない。機械化によってかつて1日かかっていたものを1時間で作れるようになった今、一日8時間(時には10時間、12時間、それ以上)の労働を提供する意味がどこにあるのか、ということなのだ。ラファルグはこう言っている。官民問わずあらゆる労働組合は、今すぐこの言葉を大書して、すべての職場に張り出すべきではなかろうか。

「自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない」