読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1096冊目】吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ』

表紙を見て「大震災以降のコミュニティ論がもう出たか」と飛び付いたが、中身を見たら「はじめに」以外は震災前に書かれたものだった。まあ、よくある早とちりだ。

よく考えたら、震災後からの執筆でこの質量はありえない。それほどに、分量もクオリティも、かなりのボリューム。もっとも、バリ島のコミュニティや日本人社会をめぐる詳細な研究の紹介が後半にどかんと控えているので、理論の筋を追うならそこは読み飛ばしてしまっても大丈夫だと思う。それでも分量はかなりのもので、防犯や防災とコミュニティの関係、地域通貨からゲーテッド・コミュニティまで、目配りの幅がたいへん広く、かつ掘り下げもなかなか深い。

文章や論理展開にややクセがあるように思えて、最初はちょっと読みづらかったが、ペースがつかめてからはそれほどでもなかった。震災後ということで刊行を急いだのかと思っていたら、初出の多くが学術関係の雑誌なので「そういう文法」で書かれているのが理由らしい。あとは元々共著の予定を単著に切り替えるなど、いろいろ「お家の事情」があったとのこと。そういえば、同じような話題や主張が章を変えて何回か出てくる個所もあったが、どうやら元々は別の媒体に発表されたものをつなぎあわせたためだったようだ。

もっとも、もうひとつ、いささか勇み足気味に理由を推測するなら、そもそもコミュニティ論というものがもつ「歯切れの悪さ」が、内容に残響していたという可能性もある。特に地域コミュニティ、なかんずく町内会には、「上からのコミュニティ」として戦時体制を担ってきたという厳然とした歴史がある。この歴史は、過去のものとして葬り去るにはあまりにも重い。

しかも、現代のとりわけ防災や防犯(特に防犯・生活安全)分野では、町内会やそのメンバーと重なるところの多い自主防災組織が、見方によっては戦前と相も変わらぬ「上からのコミュニティ活動」を担っている。もちろん地域によっては、自主的に「見回り活動」や「防災訓練」を行っておられる方々が存在するのであって、全部が全部「行政の下請け」なのではないのは承知している。だが、ここしばらくの「生活安全」ブームの中で、地縁型コミュニティがそういうカタチで「行政の下請け」として駆り出されているというのが、多くの自治体における実態ではなかろうか。

また一方では、いわゆるゲーテッドコミュニティのような「閉じたコミュニティ」も存在する。ここで問題となってくるのが、今度はグローバリズムという経済原理とコミュニティの関係である。これもまた、一筋縄でいく問題ではない。地域通貨のようにグローバリズムへの対抗原理を内包したコミュニティもあれば、ゲーテッドコミュニティのように、グローバリズムが必然的に招来する「格差」を体現するかのごときコミュニティもあるのである。そもそもコミュニティ自体がきわめて多種多様な存在であって、安易にそれを単純化することはできない。

その中で本書は、あるべきコミュニティの姿として、いくつかのキーワードを導き出している。どれもここで簡単に説明するのはちょっとむずかしいのだが、まずは「生きられる共同体」という言葉が気になった。これは「生存の場としてのコミュニティ」とでも言えばよいだろうか。それは差異を内包し、公私未分化の中でいろいろなセーフティネットを用意した、いわばコミュニティの原初的形態である。これを国家が奪い取り、自らの下部機関としてきたそのプロセスが、国民国家とコミュニティの歴史だったと言ってよい。

では「生きられた共同体」を取り戻すにはどうすればよいか。そこで出てくるのが「創発性/創発されたもの」というキーワードだ。著者はこれについて、これもまたちょっとややこしい文章なのだが「複数の主体(変化をもたらす行為主体)が相互作用を介して行為することで、個々の行為を越えて新たな集合的特性/質的に新しい関係が生み出されること」と書いている。そこには予測不能な変化のプロセスがあり、そこにこそコミュニティのコミュニティたるゆえんがあり、可能性がある。

そして、もうひとつ重要と思われるのが、そうしたコミュニティのもつ開放性・非排除性である。これまでのコミュニティの多くは、特に古いものほど「閉鎖性」がその特質、あるいは欠点として指摘されてきた。生活安全的なコミュニティや先ほど触れたゲーテッドコミュニティは、「閉じられている」ことがひとつの要素とさえいえるだろう。しかし、創発ということをコミュニティの重要な作用として位置づけた場合、そのためにはむしろ開放されていることが望ましいということになる。限られたメンバーだけで固まるよりは、いろんな「異物」があらわれたほうが、たしかにさまざまな変化を期待できそうだ。「ヨソ者」が来たことで昔からのコミュニティが一気に変わることが時々あるが、それもまた「開かれている」がゆえの「創発」といえるだろう。

こうして見てみると、著者が主張しているのは、まったく新しいコミュニティをつくれ、というよりは、むしろコミュニティの「本来」を取り戻すべきだ、ということであるような気がする。もちろんすべてのコミュニティが「元々」開放的で創発的と言えるかどうかと問われると、それはややアヤシイような気がするが、少なくともその姿を国民国家グローバリズムによって変容される前の状態で眺め、そのマインドを引き継ごうとすることは、結果としてナショナリズムグローバリズムへの対抗原理となるということなのだろう。だが、それはいわゆる「コミュニタリアニズム」ともまた違うらしいのだ。

ああ、ややこしい。冒頭にも書いたが、本書の文章が錯綜し、読みにくいのも、おそらくこのややこしいテーマのためなのだろう。コミュニティという代物、なかなか簡単には料理させてくれないようだ。