自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1051冊目】内山節『共同体の基礎理論』

共同体の基礎理論―自然と人間の基層から (シリーズ 地域の再生)

共同体の基礎理論―自然と人間の基層から (シリーズ 地域の再生)

『共同体の基礎理論』といえばこのギョーカイでは、以前この「読書ノート」にも取り上げた大塚久雄の古典的著作を指すものと相場が決まっている。本書もそれを意識して、あえて同じタイトルにしているようだ。しかしその内容は、大塚本とはほぼ真逆のもの。大塚本が共同体を「否定の対象」としてネガティブに捉えた(以前の自分の感想を読むと、そこまでは掴み切れていないような……。ひょっとしたら大塚久雄の「後光」に目がくらみ、きちんと読み切れていなかったのかもしれない)のに対して、本書はその後の時代の変化も織り込んだ上で、共同体を「肯定の対象」として捉え直す一冊となっている。

もっとも、共同体を肯定的に捉えるというだけなら、別に著者が初めてというわけではない。むしろ共同体やコミュニティに関する議論は、本書でも紹介されているように、かなり昔から存在している。中にはテンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフト」のように、やはり乗り越えられるべき存在として共同体を扱うものもあるが、一方でマッキーヴァーなどに見られるように、共同体のポジティブな側面に着目した研究も多い。それを受けて日本でも、賛否それぞれ、いろいろな議論が交わされてきている。

しかし、著者が指摘するように、日本におけるこうした議論の内容の大半は、欧米で定立された議論を輸入し、それに日本の実情をあてはめるというものであった。そのため、中には欧米における共同体の理念や現実をそのままあてはめて、日本のコミュニティの貧弱さを憂えたりするような、ピント外れのものも少なくなかった。本書はその点、既存の理論的アプローチもきちんと紹介しているが、基本的には日本における共同体という「現場」から議論を立ち上げており、まさに日本における共同体の「基礎」理論となっている。

とはいえ、注意しなければならないのは、日本の「共同体」というものが一義的に定められるわけではないということだ。むしろ著者は、共同体のあり方というのは多層的であり、われわれは多種多様な共同体が重なり合う中で生を営んでいると指摘する。このことは、特にわれわれ自治体職員のような立場の人間が気をつけておかなければならない点だと思う。

われわれはえてして、共同体と言えば市町村や町会・自治会など、地域ごとに「ひとつずつ」存在するようなイメージを持ってしまいやすい。しかし実際には、同じ地域の中にも相互に重なり合った小さな共同体がたくさんあり、なおかつそれらが積み重なった状態としての大きな共同体が存在する。そして、生活者としてのわれわれは、そうした共同体のいくつかに所属しており、著者によれば、共同体があることによって自分の存在を諒解できているのだという。「理由があるから守ろうとするのではなく、理由を問う必要もなく守らなければならない大事なものだから、この地域は共同体である」と著者は書く。これは、理由や合理や経済に覆われた現代社会へのひとつのアンチテーゼの拠点として、共同体を捉えているということができるかもしれない。

「多層的」が著者の共同体論のひとつのキーワードであるとすれば、もうひとつの重要なキーワードが「自然」(しぜん/じねん)である。そもそも、自然と人間との生活を切り離したところからはじまる西欧の共同体とは異なり、日本の共同体は自然と不可分一体のものであった。それを裏付けるのが独特の自然信仰のあり方である。そしてそれは「じねん=自ずから然らしむる」思想ともつながっている。自然も神も人も家も隣人も、そこではひとつながりなのである。著者は共同体を通して、そうした日本人の精神のあり方を描き出していく。

そうした日本の共同体を論じる足場を、著者は自らの生活に持っている。群馬県上野村に身を置くことによって見えてきた、実際の共同体の「感触」が、この本に単なる理論だけではない説得力を与えている。しかしそれは上野村だけのことではないのか、というツッコミがあるかもしれないが、それは違う。なぜなら、そもそも共同体とは「○○○だけ」の話なのである。そこにしっかりと根を張りながら、その中にひそむ普遍性を解き明かしていく手際こそが、著者の真骨頂というべきだろう。

ということで、本書はまさしく新時代の「共同体の基礎理論」の名に恥じない一冊だと思う。オススメ。