自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

入るを制するか、出ずるを制するか

財政学の教科書などでよく、「出ずるを量って入りを制する」とか「入りを量って出ずるを制する」などという言葉が出てくる。

前者は、いわば需要ベースの考え方だ。カンタンに言えば、「ほしいもの」をまず決めて、そこから「収入」を導き出すやり方である。家計でこれをやったらあっという間にカード破産だが(でも、こういう家庭って、案外多いらしい)、国や地方政府の財政ではこれに近いことが実際に行われている。それは「ほしいもの」として表現した部分の多くが、実際には福祉などの「必要なもの」で成り立っており、削ることが難しいためと思われる。もっとも、理論的には「ほしいもの」が「収入」より多い場合、その差額は「増税」によって埋め合わせられることになるわけだが、現実には借金で賄われていることが多いのはご存知のとおり。

それに対して、後者は供給ベースの考え方。収入をまず決めて、そのワクの中で「ほしいもの」の優先順位を決めていくやり方だ。たいていの家計ではこの考え方が基本になっていると思われるし、小中学生の「おこづかい」なんて典型的にこのパターンだ。公的部門でも、財務省や予算担当部局にとっては理想のやり方であろう。しかし、このやり方を徹底すると、財政規律を保つことはできようが、一歩間違えると国や自治体のミッションそのものを放棄することになりかねないので、難しい。ちなみに、選挙で決めるべきことは前者では「税金の税率」、後者では「ほしいものの優先順位」ということになる。実態はともかく、理念的には。

まあ、たいていの場合はこのどちらかに偏ることなく、両者のバランスをうまくとりながらやっていくわけだが(企業会計などはまさにそうだ)、実はこの発想、財政だけではなくいろんなところに見られるものだ。そもそも、なんでこんなことを書いているかというと、いまいろんな意味で話題になっている「電気」というものが、まさにこの「需要ベースか、供給ベースか」という問題そのものであるからなのだ。

そもそも電気は典型的な「出ずるを量って入りを制する」類のモノだった。つまりは、「ほしい量」が野放しに決められ、それに合わせた「供給量」すなわち発電量が電力会社に求められた。電気料金である程度のコントロールができるとはいえ、電気の需要自体はほとんど抑制されることなく、電力会社は求められる発電量をクリアするため、次々と発電所をつくっていった。

とはいえ、石油は埋蔵量に限りがあるし、水力や地熱、太陽光、太陽熱、風力なども、とうていそのニーズを満たすだけの発電量は確保できない。そこで拡大されたのが、今問題になっている原子力発電だったワケだ。もちろん原発反対論は強かった。安全性に対する議論ももちろんあったし、立地についても問題にならなかったことはないくらいだが、それでも「原発は必要」というのが電力会社の言い分であり、さらにはそれを後押しする政府の「国是」であった。なぜなら、電力は「求められるだけを供給する」すなわち「出ずるを量って入りを制する」ものだから。供給を需要に合わせるのが、電力政策の基本ルールだから。

もちろん、そんな状況がいつまでも続くわけはないと、誰もがどこかでは分かっていた。エコロジー運動の一端はそこにある。そして、エコロジー運動はそれなりの成果と人々の意識転換をもたらすことができたが、そこ止まりであった。耳触りのよい自己満足と安心を供給することで、かえってその向こう側にあるシビアな現実から目をそらすことにさえ、なってしまっていたかもしれない。……だが、その構造を大きく転換させる出来事が、つい最近起きた。それが福島第一原発である。

まだまだ今回の事故そのものがどうなるか、カタストロフが起きるのかどうか、そのあたりはまったく予断を許さない状況ではあるのだが、現段階ですでに分かっていることがひとつある。それは、日本国内にはもはや、ただ一基の原発さえ増設できない、ということだ。これは今後のエネルギー政策を考えていく上での出発点である。

原発の「安全神話」は、今回の騒動で文字通り地に落ちた。いざ事故が起きると、原発の周囲に住んでいる人々は「見殺し」に近い状態になることも、わかってしまった。現に原発から30キロぎりぎりの場所にある自治体には、物資を届けるトラックさえ来ないという。農産物の放射能汚染も、深刻なレベルとは言えないまでも発生した。風評被害が大きなダメージをもたらす日本の小売業界では致命的な出来事だ。福島第一原発の地元が置かれた状況が日本全国に知られてしまった現在、もはや原発建設への地元理解は、100パーセント得られなくなったと言ってよい。

では火力発電に戻るか。現在、応急処置的に起きつつある動きはそういうことであろう。セ・リーグ経営陣並みに世論に鈍感な経団連も、さすがに原発の推進など口にできなくなったことは分かっているだろうから、火力発電の復権を言い出すに違いない。しかし、そもそも原子力発電を推進したのは、火力発電に必要な石油の埋蔵量に限界があり、その供給も不安定であるがゆえではなかったか。折しも世界中で原発施策の見直しが始まっている。これが火力発電に一斉にシフトしたらどうなるか。世界はこれまで以上にアラブ諸国に首ねっこを押さえられることになるし、オイルマネーの高騰は避けられない。資源をめぐる戦争も激化するだろう。実際、世界はその方向に今後動き出すと思われる。

八方ふさがりの資源政策をどうするか。思うに、これまでの「出ずるを量って入りを制する」式の発想をこそ、世界規模でコペルニクス的に転回しなければ、人類の未来はない。欲望をエンジンとして突き進んできた資本主義社会も、おそらくこのままではいられない。それが社会主義の復活となるのか、これまでとは別種の修正資本主義のようなカタチが採られることになるのか、そのへんの予測はむずかしいが、現段階で言えることが2つ、あるように思う。

第一に、電気の需要そのものを直接的にコントロールする機関が設立されなければならない。家庭や企業、工場あたりの消費電力量に、規模や内容に応じた上限枠を設け、少なくとも国家単位で電気の需要の「総枠」を管理しなければならないだろう。「節電の呼び掛け」は、今回のような緊急時には効果をもつが、年間を通じてこれを維持するのはムリがある。個人の意欲に呼び掛けるのではなく、システムとしての「節電」を構築しなければならない。

第二に、電気の供給を行う主体は、現在のような公共的企業の形態から政府直轄に戻されるべきである。その理由は、一つには現存する原発の管理運営を行う機関を、情報公開法が適用される政府機関にする必要があるためであり、一つには、企業という仕組みは本質的に拡大志向のエンジンを積んでおり、上に書いたような抑制的・維持的なはたらきは、企業形態にはそぐわないと思われるためだ。

以上、「入るを制する」から「出ずるを制する」へのシフト・チェンジについての覚え書き。それにしても、本はちょこちょこ読んでいるのだが、なかなか「平常」に戻るキッカケがつかめない。いや、「平常」に戻ったとしても、前にも書いたように、それはこれまでとは違った「平常」なのだろう。残念だが、われわれは「3月11日」より前には、もう戻れないのだから。それにしても、福島第一原発は、とんでもない世界規模のトリガーを引いてしまったものですね。