自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

歴史の転換期と、恥ずかしい人々

この地震は、日本の歴史を区切る大きなエポックになる予感がする。

日本史で言えば明治維新や1945年8月15日の終戦、最近の世界史で言えば1989年11月9日のベルリンの壁崩壊や2001年9月11日の同時多発テロのような、その時点を過ぎてしまえば、もうその前には戻れない「歴史の断層」。2011年3月11日は、そんな一日になるのではないか。それが具体的にどのようになるのか、今はまったく見当がつかないが、少なくとも3月10日までの日々とそれ以降の日々は、まったく異質なものになるだろう。

本というものは、基本的には「過去」に属するものだと思う。その本を読み、それについて書くことも、やはり「過去」に属する行為である。もちろん、過去を振り返ることで未来への洞察を深めるという意味も読書にはあるわけだが、現実にこうやって巨大な歴史の転換点を目の前にすると、本の存在は色あせてしまう。むしろ、前のエントリで『方丈記』や『パンセ』を引いたが、現実に立ち向かい、理解するための補助線を引くために、これまで読んだ本の内容を思い出すことのほうが多い。読書がインプットであるとすれば、こうした想像を絶する現実を目の前にして、それを理解し、読み解き、行動するという行為こそが、本当のアウトプットということなのだろう。大げさに言えば、現実という巨大な「書物」のページを、わたしたちはいま読んでいるところなのかもしれない。

それにしても、被災地で多くの命が失われ、生き残った方々も物資が足りないなかで辛い生活を強いられているというのに、たかだか震度5強の東京で起きている食料品や乾電池・携帯コンロ等の買い占めやガソリンパニックのみっともなさは目に余る。

食糧やガソリンが足りているなら、このような買い占めは意味がない。一方、もし食糧やガソリンの不足が生じているなら、限られた資源をもっとも有効に使う方法は、各自が「その日に使う分」だけを節度をもって買い求めることではないのか。全体が足りないにもかかわらず、誰かの家に無駄なストックが積み上がるのなら、それは全体の不足をさらに助長するだけではないのか。特に優先的にこうした物資を配分しなければならない被災地のことを、こうした人々はどう考えているのか。

みんなが買い占めるから、私も買わなければなくなってしまう。買い占めをする人の言い分はそういうことだろう。だが、それは被害者面をした加害者のエゴイスティックな言い訳に過ぎない。オイルショックとともにトイレットペーパーの買い占めが語られるように、今回の買い占めにみられた現代日本の「市民」のおろかしい行動は、時代を画するこの大地震の悲劇とともに、ずっと語り継がれていくことだろう。