自治体職員の読書ノート

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【1004冊目】苅谷剛彦『教育と平等』

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

職読・各論編。教育問題である。あまりよく知らない分野なので、目次をコピーしてそこにメモを取りながら、やや丁寧めに論旨を追って読んだ。以下、今回はなるべく要約を中心に書いてみる。なぜなら本書の「理解」こそが、次なる議論のためのジャンピング・ボードになると思うからだ。

さて、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名なコトバがある。本書を読んでいてふっとこの浮かんできたのが、このフレーズであった。

なぜなら、本書はまさに、日本の教育制度の「歴史」を綴った一冊だからである。それも単に出来事を並べるだけではなく、教育資源の分配や制度設計者の思惑といった制度設計者側の観点から、日本の教育制度史を通観し、その根底に動いているロジックを浮き彫りにした。キーワードは「平等」と「標準化」。

そもそも明治維新以降、日本の教育問題は、地域間の経済格差と密接に結びついていた。分かりやすく言ってしまえば、ビンボーな地域ほど学力が低かった。この身もフタもない状況を何とかしようと格闘してきたのが、教育の近代史と言ってよい。

当初、教育に関する費用は基本的に市町村持ちだった。そのため、財政基盤の弱い地方ほど教育への支出も低かった。これを平等にするためには、都道府県や国のレベルで教育費を確保するしかない。教員の配置も同じ。教員の質をなるべく平準化するためには、県などの広域的な単位で教員を採用し、処遇を統一し、人事配置を行うのが早道だ。今に至る「県費負担教職員」問題の起源である。昨今の地方分権論とはまるっきり逆の発想だが、当時は当時なりの切実な事情があったのだ。

さて、「平等」を成し遂げようとする場合、当然ながら一定の基準を設け、そこに現実の学校制度を合わせていく「標準化」がどうしても必要になる。対象となるのは、校舎や設備、教員の数、そしてカリキュラムなどの教育内容……。そして、この「平等」「標準化」には2つの方向がありうると著者はいう。ひとつはアメリカ型の「生徒の個性」に照準を合わせた平等。そしてもうひとつは、集団に照準を合わせた「面の平等」だ。

日本の教育がどういう「平等」を志向するか、そこにはいろいろと紆余曲折があったらしいが、結果的に選ばれたのは「面の平等」の方だった。そして、そこで教育の最小単位として選ばれたのが「学級」である。結果として、学級は日本の教育制度のミニマム・ユニットとなった。学級は単なる学習単位というだけではなく、社会集団であり、生活集団であり、一種の共同体的性格すら帯びている。特に小学校は学級単位ですべてが動く。学級崩壊なる現象が重大視されるのも、裏を返せば学級の維持が学校にとって至上命題であるから、と言えるかもしれない。

こうした学級単位の「面の平等」に基づく制度こそが、地域間の経済格差と教育格差を切り離し、奇跡的なまでの日本人の基礎学力向上を実現するとともに、個性無視とか悪平等などど言われる日本教育制度の欠陥を生みだす温床となっていった。それこそが日本の教育制度の裏側で動いている「見えないロジック」だ、というのが、本書全体を通じての著者の主張であった。こうしたロジックの存在と功罪を踏まえずして、自分の体験だけでなされた「愚者の批判」が空回りに終わりやすいのは、ある意味当然と言えるのかもしれない。