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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【947冊目】岡田暁生『音楽の聴き方』

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

扱われているのは、主にクラシック音楽。しかしその応用範囲は、音楽全般、さらには小説、映画、絵画、写真などおそろしく広い。いろいろなことを連想し、考えさせられる良書。

音楽を聴くときに、予備知識は必要か。テレビやラジオで流れてきた曲を耳にして、誰の何という曲か全然知らなくても、「あ、いいな〜」と思うことがある。純粋に音楽を感じるためには余計な知識や情報は必要ない、という意見もあるだろう。それはそれでわからなくもない。

しかし一方で、一定の知識を「知っている」か「知らない」かで曲の聴こえ方がかわってくることがある、というのも、また歴然とした事実。それはそのジャンルに共通する「お約束」であったり、曲の構造に関する知識であったり、その曲や作曲家にまつわるエピソードだったり、あるいはその曲が書かれた国や民族の歴史や文化、言語に関する知識だったりする。

クラシックの例で言えば、ベートーヴェン交響曲を聴くには「ソナタ形式」について知っていたほうが曲の「つくり」が見えやすいし、ベルリオーズの「幻想交響曲」はベルリオーズ自身の失恋のエピソードを知っていたほうが面白い。シベリウスの「フィンランディア」はフィンランドの独立の歴史とウラハラだ。

これはつまり、ある「作品」を鑑賞するにあたっては、周囲から切り離された単独のモノとして捉えることもできるだろうが、それよりもその作品やそのジャンルが置かれている「立ち位置」を知っていたほうが、より楽しめるということだと思う。それはやや大げさに言えば、世界の中でその作品がどんな文脈におかれているかを読み取る、ということになっていくのだと思う。

したがって、その作品について「語る」時も、その作品のみについて感じたことを言葉にしていくというやり方だけではなく、そこにさまざまなコンテクストを浮かび上がらせ、その作品を通じて世界へと通ずる回路を開くということもできるはずなのだ。この「読書ノート」はまだまだその域には到底至っていないが、たとえば松岡正剛氏の「千夜千冊」などは、一冊の本を「知」の網目構造、ネクサスの交点に位置づけ、そこから無限に広がる世界の豊饒さを覗かせてくれている。

……というようなコトがそのまま本書に書いてあるわけではなく、上に書いたのは、むしろ読みながら私自身がつらつら考えた内容なのだが、本書のテーマのひとつが「音楽を聴く」ことと「コトバ」の関係を考えるという点にあるのは事実。音楽体験は言語化不可能である、というのもひとつの真理ながら、それを「語る」言葉をもつことが実はとても大事なのだ、ということを、本書はさまざまな具体例を通して示してくれている。

特に個人的に興味深かったのは、アマチュアについて触れた章。かつては、一般の「素人」が音楽を弾きつつ聴くという文化があり、いわば演奏家と聴衆が重なり合っていた。しかし、時代を経るに従って両者は分断され、一方では素人には演奏不可能なほどの高度な技術を要求する曲が書かれ、一方では聴衆は「お金を払って聴く」という消費者の立場になってしまったという。

思うのだが、これってけっこう、音楽というものの本質を突いた指摘ではないだろうか。原初の音楽は、あくまで「するもの」であり、誰もがタイコをたたきながら歌い、踊っていたはずだ。それがいつのまにかステージの上と下に分断されてしまい、そのことが、音楽というもののありようを根本的に変えてしまったということだろう。……とすると、カラオケとかクラブ、ダンスなどというものは、そうした状況に対するアンチテーゼ的な存在として捉えることができるんじゃないかしら(「踊る」ことも、言うまでもなく音楽の一部だ)。いずれにせよ、なかなかにイミシンな指摘。面白い。