自治体職員の読書ノート

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【935・936冊目】正岡子規『墨汁一滴』『病牀六尺』

墨汁一滴 (岩波文庫)

墨汁一滴 (岩波文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)

病牀六尺 (岩波文庫)

病魔との闘いの日々のなか、死の2日前まで綴られた随筆であるが、死の影よりも生の充実、そして細部へのこまやかな視点に満ちている。果たしてこれは、いかなる境地か。

新聞「日本」に連載された随筆。とにかく信じられないのは、そのすべてが死を目前にして、毎日すさまじい苦痛にのたうつような病床の日々の中で書かれたということ。なにしろ「病牀六尺」とは、ほとんど寝たきりになった子規の「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」という境地からきているのだ。

そのような状況で綴った文章であれば、たいていの場合、「死」や「苦痛」が文章の前面に出てくるだろう。なにしろまだ30代半ばである(子規の享年は数え年で36歳)。もっと生きたいという願いや死への恐怖、あるいはもっと透徹した、悟りの境地のようなものが綴られるのがフツーだと思う。

ところが子規は違う。この2冊の随筆すべてを通じて、子規は読み手に死の影をほとんど感じさせない。病気の苦しみについてはさすがに多少触れられてはいるものの、知らなければ読み飛ばしてしまいそうなほどさらりと、あるいは諧謔めいたユーモアを交えて、病気に苦しむ自分自身を笑い飛ばすように書かれているだけだ。悟りのような浮世離れした感覚もほとんど見られない。むしろ「浮世」にどっぷり漬かっている。天下国家を論じ、世相に怒り泣き、知人の消息に触れ、うまい食物に思いを巡らせる。

さらに読みどころは、子規の画評や句評のみごとさである。特に俳句に対しては手厳しく、月並俳句をバッサバッサと一刀両断するさまには、これが余命わずかな病人かと思えるほどのエネルギーと執拗さを感じる。さすが『再び歌よみに与ふる書』で「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」とやった人物だけはある。画論もたいへん面白く、「眼力」とはこういうことかと思わせられる。

そのほかにも、日常を綴ったさりげない文章から日本を論じた文章まで、いずれも達意というほかない名随筆ばかり。織り交ぜられている俳句も絶妙。新年に貰った品々を病床に並べて詠んだ「年玉を並べて置くや枕もと」なんて、なんだかせつなくなってしまう。とにかく、子規という人物そのものが見事に転写された2冊。病牀六尺から見える世界は、なんと色鮮やかで豊潤であることか。