自治体職員の読書ノート

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【928冊目】中村文則『掏摸[スリ]』

掏摸(スリ)

掏摸(スリ)

一人の孤独なスリ師の視点から、都会の底辺でうごめく人々や、犯罪とアウトローの世界に生きる人々の姿を、地を這うような目線でじっくりと描く名品。

主人公はスリによって生計をたてている。金持ちしか狙わず、現金のみを奪う、筋金入りのプロフェッショナルだ。そのスリの業の多彩さと巧みさに、まずは驚かされる。こりゃかなわない。現実のスリ師のテクニックもこのレベルだとしたら、明日から、財布のしまい場所を考え直さなければ。

だからといって本書は、いわゆるクライム・ノベルとは一味違う。なにより主人公の荒涼とした心象風景が印象的だ。プロとしての矜持も、犯罪者仲間を除いては誰にも理解されない。家族も友人もいない。恋人はすでに去り、かつての仲間もこの世を去っている。都会のなかの孤独。スリ師としての孤独。そんな孤独をかこつ男だからこそ、一人の子供にいやおうなくひきつけられていく。

その子供は、母親にスーパーでの万引きを強要されている。しかも、その母親が連れ込んでいる男に殴られているというオマケつきだ。主人公はその子供に同情し、幼い日の自分の姿をそこに見る。その子供は、男の孤独な心の一番やわらかいところに触れたのだ。主人公は子供を母親から引き離し、正道に引き戻そうとするが、同時に見つからない盗みのテクニックを教える。それは矛盾だろうか。否、だと思う。男は自分の経験に照らして唯一教えられる「この世界での生き抜き方」を、その子供に教えたのだ。

そして、本書である意味もっとも強烈な登場人物が、木崎という男だ。かつての主人公の仲間を葬り去った男であり、きわめて危険で、邪悪な人物である。小説の後半、主人公は木崎に犯罪の片棒を担がされ、従わざるをえなくなる。神ならぬ身ながら、人の運命を掌握することに長け、それを「握りつぶす」ことに喜びを感じる木崎と、彼によって支配され、そのとおり動かざるをえない主人公の運命の理不尽さ。そこには、この社会の決定論的な残酷さと、その奥底にかすかに見える、ひとすじの光の美しさが見事に描かれている。