自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【898冊目】アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第2巻

アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第2巻(上)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)

今確認したら、「第1巻」を読んだのが2007年8月であった。3年ぶりの「続編」ということになる。ちなみにトクヴィルが本書を書いたのは、第1巻の5年後、アメリカ渡航からは約9年が過ぎた頃だったらしい。そして、第1巻では、アメリカにおける民主主義の現状を具体的なリポートふうに記述したものが中心だったのに対して、本書はむしろ理論的な展開がメインとなっている。

特に重点が置かれているのが、「平等」の問題。フランス革命以来、「平等」といえば自由と並ぶ市民革命のメインテーマであり、特に「第三身分」の取扱いが革命の引き金となったフランスでは、「平等」の重要さは格別であった。しかし、「平等」には負の側面も多々存在するのであって、その点をデモクラシーとからめて正面切って指摘したのが本書である。

革命以前の、貴族階級が厳然と存在していた時代、平民にとっては、どんなに努力しようとも、身分や階級という「越えられない壁」が存在していた。一方、貴族はその身分に応じた責任を果たすことを求められた。さらに、貴族階級は日々の労働を免除され、たっぷり時間をとって思索や芸術に耽ることがゆるされていた。政治を担っていたのもこうした貴族たちであり、国家のことを考える余裕も彼らには与えられていた。

しかし身分の壁が取り払われることによって、誰もが立身出世を望むことができるようになった。それはまた、誰もが懸命に働き、競争することを強いられる社会の到来であった。さらに、相続制度が改められ、貴族の「家制度」も解体する。そのため、人々は日々の多忙にまぎれて国家のことや深遠な思想を巡らせる余裕を失い、自分の祖先や子孫を含めたスパンで物事を考えることもできなくなった。そして、自分の目先の利益だけを追求する人々がどっと増えたのだ(その状況はおそらく現代にまで続いている)。そして、自分の私的利益を追い求めることだけで手一杯の人々は、国家の運営を「中央政府」に一任するようになっていく。民主主義という制度は導入されているものの、有権者は選挙の時だけ登場し、あとは政治家や官僚に「お任せ」という次第。非常におおざっぱなまとめ方をしてしまえば、これがトクヴィルのいう「平等の弊害」である。

もっとも、だからと言っていまさら身分制に戻ることはできない。そこでトクヴィルが着目したのが、個人と中央政府の「あいだ」に中間団体をかませるという、アメリカの「草の根民主主義」ふうのやり方であった。市民的・政治的な「結社」(アソシエーション)が、平等の先進国であるアメリカで盛んに活動していたことがヒントになっている。

そして、それと関連して重要になってくるのが、地方自治であった。地方自治は、身近な地域の問題解決を通して一般私人が公的な問題にコミットすることで、自分のことしか考えられなくなってしまった平等時代の個人の目を公共の利益に向けさせる機会となるのだ。逆にいえば、地方自治制度がきちんと機能していないのに、いきなり国政レベルで民主主義を機能させるのは無理な話なのである。

他にも本書は、地域の産業のこと、軍隊や兵役のこと、国家主義の危険性など、非常に幅広いトピックを扱い、しかもそこで展開されている議論の大部分は現代にも通用すると思われる。1840年に書かれた書物であるにも関わらず、ファシズムスターリニズムの出現、世界的な地域分権の潮流などが予見されており、その思索の的確さには恐れ入る。そして、本書で「平等の弊害」を論ずるにあたり想定されている国はフランスであるが、日本もまた、身分制度や家制度が崩壊し、個人が目先の利益だけを考えて公共の利益に目が向かなくなり、中間的な団体や地方自治も衰退しているなど、トクヴィルが見ていた当時のフランスと非常に近い状態に置かれている。トクヴィルは最近になっていろいろなところで見直されてきているが、理由はそのあたりにあるのだろう。