自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【883冊目】宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

グローバル化による世界規模の「平等化」が進み、「ナンバーワンよりオンリーワン」な私こそが最優先となる。そんな現代社会におけるデモクラシーの役割を問い直す一冊。

本書の前提となっているのが、伝統的な共同体や社会階層の崩壊、年功序列システムに基づく会社の「社員丸抱え」システム、さらには家制度の解体。つまり、個人と国家の「間」にあるいろいろな組織の衰退である。それによって起きたのが、階層や業種の間にあった「不平等」の顕在化であり、個人が人生の目標からライフマネジメントまでを丸抱えしなければならない時代の到来である。もはや宗教や共同体の規範など、外部に「正しい」基準は存在しない。準拠枠としての社会が解体する中、人は自分の中にすべての答えを見い出さなければならなくなっている。

そうした社会はまた、社会の抱える問題が「個人の問題」として投射される社会でもある。社会問題としての「失業問題」が個人の問題にすり替えられ、「フリーター」や「ニート」も、当初は個人の「心の問題」とされてきた。社会のリスクが個人のリスクに置き換えられ、それを「社会の問題」「公共の課題」につなげていくことが難しくなっている。つまり、私的領域と公的領域を架橋する「アゴラ」(広場)的存在が失われているのだ、と本書は言う。

また、人間はもともと、属する社会からリスペクトを受け、「位置と役割」を与えられることを望んでいる。デモクラシーは、本書において、そうした「アゴラ」や「社会」を再構築し、取り戻すためのひとつの手段とされている。外的な規範が失われている今、「何が正しいか」「何が公共の利益か」を外部から一義的に決めることはできなくなっている。だからこそ、デモクラシーのプロセスは、常に異議申し立てに対して「開かれて」おり、「自己批判能力」を有するべきなのだ。

本書を読んでいてうなずかされることが多かったのが、実は前半の「平等社会」と「個人主義」にかかわる分析であった。中間団体が崩壊し、個人と国家が直に向き合う中で「個人」が社会的紐帯から切り離されて漂流する。その危うさについては現代社会論やナショナリズム論でいろいろ論じられているところではあるが、本書ではその要点がコンパクトにまとまっており、今の日本や世界が共通して抱えている現状とは何なのか、を俯瞰することができる。

一方、そうした問題とデモクラシーという制度がどうリンクするのかという部分は、やや綱渡り的な印象があった。著者は、平等社会においては「共感の能力」を前提とした他者=社会の尊重という「平等社会のモラル」に基づく「相互的なリスペクト」を構成し、支えることが一人ひとりの個人(つまりこの本の読み手)に求められている、と言う。そして、そうした個々人のモラルに基づく行動こそが社会を変える、と。確かに、ロジックとしてはそれで成立している。しかし、生身の人間が果たしてそうした行動をとりうるのか。そこまで期待してよろしいのであろうか。ここまでくるとその人の人間観にも関わってくるので難しいのだが、この内容は、すべての人々に期待するには少々重すぎるような気がする。「私」と「デモクラシー」を結びつけて論じるということ自体、かなり冒険的だと思うのだが、この結論も、現実的にはかなりきわどいものがあると感じる。う〜ん、でもやっぱりこれしかないのかな……。