自治体職員の読書ノート

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【873冊目】コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』

ブラッド・メリディアン

ブラッド・メリディアン

19世紀半ば、開拓時代のアメリカが舞台である。荒野をさ迷う少年は「判事」と名乗る人物に誘われて、グラントン率いる「頭皮狩り隊」に加わる。その日々は、荒野を放浪し、インディアンを片っぱしから襲撃、殺戮してはその頭の皮を剥ぐというすさまじいものだった……。

最初の方は、いわゆるアンチ西部劇かと思って読んでいた。開拓者をヒーロー、インディアンを悪役とするのが「伝統的」な西部劇なら、視点を180度転換し、平和に暮らしていたインディアンにいきなり襲いかかり、虐殺を繰り返すアンチヒーローが開拓者となる、という類である。しかし、読んでいくうちに、どうもそうではないらしい、と感じはじめた。

善悪という視点が、どうやらこの小説には根本から欠如しているようなのである。西部劇もアンチ西部劇(訳者あとがきにいう「修正主義西部劇」)も、開拓者とインディアンの一方を善、一方を悪とする「勧善懲悪」の図式をもっている。そこにあるのは、「善」の側に立って「悪」を指弾する、というスタンスだ。しかし、本書の記述にはそうしたウェットなものがほとんど感じられない。おそろしいほどの冷静さで、そこに起きているすさまじい残虐行為が、淡々と綴られているのだ。そこには善の立場から悪を裁くような視点はおろか、あえて悪の立場に立つというピカレスク的視点すら存在しないように思う。ニーチェではないが、この小説の視点は「善悪の彼岸」に置かれているとしか思えない。

そして、善悪という枠組みをとっぱらって記述された世界は、なんとシンプルで美しいことか。本書の特徴のひとつは情景描写の美しさなのだが、例えば荒野に咲く一輪の花やゆらめく焚き火の炎を美しく描写する筆致と、罪もないインディアンたちの脳味噌が吹き飛び、内臓が露出し、頭皮が剥ぎ取られる凄絶なシーンを描写する筆致が、同じ質感なのである。何が善で、何が悪かを評価することから、徹底的に解き放たれた文章。本当の意味で非情であることの酷薄な美しさ。素晴らしい。

特にその権化のような存在が「判事」である。身長2メートルを超える巨漢で哲学者のように世界を語り、多くの外国語をあやつる一方、グラントン隊の中でも抜きんでて冷酷で非情な存在。キリスト教的な「人間」の姿からは、大きくかけ離れたキャラクターだ。むしろニーチェのいう「超人」はこのような男を指すのだろう、と思わせられる。「訳者あとがき」ではコンラッドの『闇の奥」のクルツに例えられていたが、確かによく似ている(『闇の奥』を下敷きにつくられたコッポラの映画『地獄の黙示録』のカーツ大佐、と言ったほうが分かりやすいか)。個人的には、読んでいて旧約聖書の『創世記』『出エジプト記』あたりを思い出していた。アメリカに創世神話があるとすれば、それは本書のような形をとることだろう。

ここに書かれていることは、必ずしも「事実」ではないかもしれないが、アメリカの血塗られた歴史の深層をえぐる「真実」であるように思う。今書かれている本のうち、何冊が50年後、100年後まで残るか知らないが、本書は間違いなく、未来の「古典」として、100年後のアメリカ文学史にその名を刻まれる一冊であろう。