自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【859冊目】よしもとばなな『チエちゃんと私』

チエちゃんと私 (文春文庫)

チエちゃんと私 (文春文庫)

よしもとばななは、今まで食わず嫌いだった。

『キッチン』や『白河夜船』がヒットしていた初期のころ、いかにも読みやすそうでライトな感じがひっかかり、底の浅い流行モノだと決めつけていた。そういう先入観はけっこうその後の読書に響く。一時の流行で消えることなくコンスタントに作品を発表しているのは時折目にしていたが、なかなか手に取る気になれず、「吉本ばなな」が「よしもとばなな」になっていたのも気づかなかったくらいだ。

ところが、もうどの雑誌か忘れてしまったがとある雑誌でよしもとばななのエッセイを読み、おやっと思った。何かひっかかるものがあった。もうその中身は忘れてしまったが、そのうちこの人の小説を読もう、と思わせられる何かがあった。だったらすぐに読めばよいのだが、他の読みたい本にかまけているうちにまた数年が過ぎた。よしもとばななは、今度は食わず嫌いではなく、8月31日まで手をつけない夏休みの宿題のような存在になっていた。読もうにも作品の数が膨大すぎて、どこから手をつければわからなくなっていたのもある。だから、食わず嫌いは良くないのだ。

ところが今回、何の考えもなく、図書館の文庫本の棚にささっていたこの本に手が伸びた。読み時かな、と感じた。経験則だが、観念的に「読むべきだ」と思ってから手を伸ばす本と、ふっと意識がそっちに向いて手を伸ばす本では、後者のヒット率のほうが数段高い。薄い本だったこと、比較的新しい本だったこともある(これも経験則だが、読んだことのない著者の本は近著か、何かの賞の受賞作か、処女作から入ることが多い)。そして、直観は間違っていなかった。とても良い小説だった。

主人公のカオルは40代の女性。独身で、おばのやっているイタリア雑貨の店を手伝い、イタリア語ができるので現地での買い付けを年に数回担当している。そして、そこに同居することになった従妹が、本のタイトルにもなっている「チエちゃん」。このチエちゃんが、実はとっても変わっている。

話したくないことは話さない。率直でお世辞やおためごかしが一切ない。それなのに、きらきらした眼で世の中の真実がわかっているふうがある。そんなチエちゃんに、実は「私」のほうがすっかり精神的に依存している。変わっているとはいえもういい大人なのに、手放すことができず、家にいてくれないと不安になる。その理由はおそらく、「私」のいわば欠けた部分に、チエちゃんがぴったりと合っているから。まるで鍵と鍵穴のように。

そして、「私」は今の生活にほとんど完璧に満足している。勝ち組とか負け組とか、上昇志向とか成功を目指すとか、そういう欲にあおられることがなく、そういう欲の危うさをよく知っていてそこから身を遠ざけている。そこにはカオルという女性ひとりぶんの、生活のライトサイズというものがある。それはチエちゃんも同じ。二人に共通しているのは、現状を大きく肯定し、「今」の積み重ねで人生が成り立っているという認識。そしてそれは、おそらくよしもとばななの人生観でもあるような気がする。一冊しか読んでいないのに恐縮だが。

それにしても、よしもとばななの文章は面白い。静かなのにリズミカルで、メタファーが自由自在で、日常の描写のただなかに、とつぜん人生の真理が顔を出す。ああ、もっと早く読んでおけばよかった。