自治体職員の読書ノート

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【854冊目】姫野カオルコ『ハルカ・エイティ』

ハルカ・エイティ (文春文庫)

ハルカ・エイティ (文春文庫)

平凡ってなんだろう、と思いながら読んだ。

主人公、ハルカのモデルは著者の伯母であるらしい。本書はその人生を淡々と描いている。大正9年に生まれ、軍人の夫と見合い結婚し、女の子を生み、幼稚園の園長を勤め、夫に浮気され、自分も浮気し……と、まあそれなりに起伏も波乱もあるものの、それを言えばどんな人生にも、多かれ少なかれそういう波風はあるもの。その意味でやはりハルカの人生は、平凡と言えば平凡、フツーと言えばあまりにフツー。著者自身はあとがきで「何もおこらない一代記」と表現している。それが文庫本で500ページ以上、続く。

ところがこれが、読みだすと止まらない。平凡な人生がつまらないなんて大ウソだということが、この小説を読むとよくわかる。普通に生きることの苦悩と歓喜が、ことごとくこの本には詰まっている。そしてそれは、大きな事件やイベントではなく、むしろ日々の生活に細部に光っているのだ。じっさい、本書の凄味は筋書きよりもディテールにある。ちょっとした会話のはしばし。着ている服や身につけている小物。微妙な感情の揺れ動き。すべてが単なる書き割りではなく、生きて躍動している。

そして、この小説には時間が流れている。一本道の流れではない。冒頭に登場するのは81歳のハルコ。ヒルトンの最上階でコーヒーを飲むのが好きで、タクシーに乗れば運転手にナンパされ、80代と聞いて誰もが耳を疑う。そんな素敵な女性を最初に描いておいて、物語は一気にハルカの出生までさかのぼり、その成長を追っていく。読み手は「ゴール」となる81歳のハルカを脳裏に焼き付けたまま、幼いハルカ、少女のハルカ、新婚のハルカ、母のハルカ、浮気をする人妻のハルカを二重写しで読むことになる。そしてラストは、夫とホテルに出かけようとしている56歳のハルカ。そこにはまぎれもない「時間」の堆積が感じられる。ひとりの女性の人生の時間であり、夫である大介との夫婦の時間である。そして、56歳から81歳までのハルカは、描かれない。しかし、その間を想像で埋めるだけのものはすべて小説のなかで与えられている。

平凡に、普通に生きることが一番むずかしい、という。ハルカはまさに、平凡で普通の人生を見事に生きた女性であったように思う。そして、その人生をここまで細部を積み上げて描き切った著者の力量は、見事。毒々しい事件ばかりが人を惹きつけるわけではない、という当たり前のことを再認識させてくれる小説だ。