自治体職員の読書ノート

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【843冊目】金子光晴『絶望の精神史』

絶望の精神史 (講談社文芸文庫)

絶望の精神史 (講談社文芸文庫)

古代から現代まで、日本史がらみの本に偏った読書ノートが続いてきたが、いちおうこの本でそれも終わる予定。今後もちょっとずつ読んではいくが、基本的には元の読書ノートのスタイルに戻ります。

さて、本書は詩人の金子光晴が、明治以降の日本人の精神のありようを「絶望」という視点から通観するという、やや変わったアングルの一冊。明治以降の日本近代化の過程は、その裏側に多くの人々の「絶望」を呑み込んで、その上に成立してきた。そのことを著者は、主に身近な人々の体験を通じて描き出し、それによって近代をいわば裏側から照らし出そうとしている。

明治の「ひげの時代」にあって江戸時代の古い意識を持ち続けたがゆえに時代に受け入れられない絶望、文学を志す青年が父親にその道を絶たれる絶望、西洋の文化の浅さと醜さを感じつつ、元々の日本文化とも断絶している絶望、関東大震災の後、モダンを装っていた大正人たちの愚かしい本性がむき出しになったことへの絶望、戦時下にあって徴兵を逃れることのできない絶望……。それぞれの時代は固有の「絶望」を背負っていた。しかしそれは、一方では、そうした絶望があったからこそ時代の精神というものもまた存在したのだし、絶望によってその心の根が鍛えられたという面もあるのである。

ところが問題は、戦後の日本が「絶望」を経ることなく、ある種無邪気な歴史認識に甘んじているという点である。その傾向は大きく二つに分けられる。一方は、列強との競争として明治以降の百年を眺め、その結果として終盤で負けたのは本懐であるとする「明治百年をよしとする」見方。もう一方は、戦争に突き進んだ日本のあり方は誤っていたが、その後の「平和設計に切り替えた」日本のありかたは正しいのだとする「戦後二十年」の見方。

しかし、著者はこのいずれの見方にも与さない。なぜなら、そこには「絶望」がない。それよりもこれからの日本人は、「できるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、すこしでもう意味な犠牲を出さないようにしてほしい」という。さらに「絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど、現代のすべての構造は、破滅的なのだ」とまで、言うのである。

この痛切な思いは、どこか坂口安吾の『堕落論』を思い出させるものがある。坂口安吾金子光晴も、あたっている焦点は異なるものの、戦争を「間違っていたこと」として片付け、平和と民主主義の戦後を安易に肯定する人々を、きわめて厳しく見ているように思う。それくらいなら、むしろ戦時中の日本の過誤も愚劣も、すべてを自分の精神に刻印し、深い絶望に至るべきなのだ。8月15日を、日本人はこんなに簡単にまたいでしまってはいけなかったのだ。