自治体職員の読書ノート

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【833冊目】村上春樹『1Q84 BOOK1 BOOK2』

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

この本に限らず、村上春樹の本について書くことは難しい。それが「気楽な感想」であっても。

読んで受けた印象というのは、ある。それはきわめて多重複合的で、いろんなものが薄絹のように重なり合っている。間違いなく、それは私の中、しかもかなり深いところにすっと潜り込んできたものだ。ところが、それについていつもの調子で書こうとすると、「それ」はするすると逃げてしまう。いや、逃げるというより、蜃気楼のように「書こうと思って近づくと、もうそこにはいない」という感じだ。「それ」について十全に語るのなら、本書の全文章をここに載せるしかない。その微妙なメタファーやらせん状の組み立てや、箴言のようなセリフや料理のシーンなどを、一切合財読むしかない。

書評がいろいろあるようだが、一切読んでいない。基本的に書評というものはまったく信用していないのだが、特に村上春樹についてはそれがあてはまる。この人は、おそらくは他のどの作家よりも、「言葉によって言葉で書けないコトを書く」ことをし続けている人なのだ。名指し得ない存在をそのように書くという稀有の離れ業ができるのだ。ましてやamazonレビューなど(さっきちらっと覗いたが)はっきり言って糞壺のような印象しかもてなかった。あんなものを参考にしてはいけない。

などと書いた後にすぐ、舌の根も乾かぬうちに感想を書くのだからロクなもんじゃないが、まあ糞壺に新しい糞を投げ込んだとでも思っていただきたい。その程度にしか、この本については書けない。そういう前提での感想だ、ということである。

本書は「青豆」と「天吾」の二人を軸にして、一章ごとに主役が交代するかたちで書かれている。青豆は表向きはスポーツインストラクターだが、裏の顔は殺し屋である。しかも彼女が殺すのは、妻や娘などに暴力をふるったり、虐待したりする卑劣な男のみ。一方、天吾は予備校の数学教師で、小説家志望だが、今のそこそこの生活に満ち足りている。料理が好きで上手く、穏やかで孤独な青年という、まあ村上春樹の小説によく出てくるタイプだ。一方、青豆というキャラクターはちょっと独特に思える。女性ということもあるが、ここまでアクティブなアウトドア系の主役が登場するのは、おそらくちょっと珍しい。

まあ、ストーリーはどうでもよろしい。いや、どうでもよくはないが、それならウィキペディアでも見れば大方のあらすじはつかめる。問題はこの小説の世界観だ。ここで描かれているのは、「1984年」がちょっとだけ変わった「1Q84」という別の世界なのだ。いや、本書の言い方になぞらえて正確に言えば、「本来の世界からレールのポイントが外れてつながってしまった、新しい現実の世界」がこの1Q84だ。ここでは、世界は断絶し、宙に浮いている。

思ったのは、この世界観って、まるっきりわれわれの生きている現代日本の世界観ではないか、ということだ。前に『日本力』を読んだ影響もあるのかもしれないが、この独特の、時間的・空間的に孤立したような、歴史から切り離された妙に清潔で幾何学的な世界観は、今の日本そのもののメタファーに思えた。われわれはそれを本当の世界だと信じて暮らしている。しかし実はそこには目に見えない断絶があり、作為があり、虚構がある。それを仕組むのは、オーウェルの『1984年』のビッグ・ブラザーではなく、暗示的なまでに対称的な「リトル・ピープル」というあやしい存在。彼らは世界の裏で糸を引き、世界の裂け目から現れる。善でも悪でもない、本源的な存在。

そう、1Q84の世界には「裂け目」がある。いや、むしろ村上春樹が一貫して描こうとしているのは、この「世界の裂け目」であると思う。それは高速道路から降りる非常階段であり、死んだ山羊の口から出てくるリトル・ピープルであり、夜空に浮かぶ2つの月だ。裂け目を覗くことには相当の危険が伴う。しかし、裂け目の存在を知っておかないと、今の世界をまるごとホンモノだと信じてしまう。

村上春樹の小説は寓話的だといわれる。その通りだと思う。しかし、寓話的であるということは、世界のメタファーであるということだとも、思うのである。したがって、もうひとつ。村上春樹の小説は世界文学志向で、日本的ではないと言われることがあるらしい。とんでもないと思う。今の日本自体がまったく「日本らしさ」を失っているこの状態にあって、そんなデオドラントでのっぺらぼうな日本そのものをこれほど的確に描き切っている現代日本の作家を、私は他にほとんど知らない。