自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【820冊目】森巣博『賭けるゆえに我あり』

賭けるゆえに我あり

賭けるゆえに我あり

前からこの著者の存在は気になっていたところ、書店でたまたま見つけて衝動買い。そのまま一気に読み終えた。

著者はオーストラリアを根城とする「国際的博奕打ち」。30年以上この道で食ってきているといわれると眉に唾をつけたくなるが、本書を読むと、その言葉があながちウソではないと実感できると思う。それほどに、この本には「賭場」で学んだギャンブルの真髄が濃縮されている。

「博奕は科学ではない」と著者は言う。しかしその後に、すぐこう言う。「しかし、博打は非科学でもない」。

まるで禅問答である。矛盾である。しかし、その矛盾にこそ真実があると、著者は言う。確率論は、確かに存在する。確率論を知らなければ、そもそもお話にならない。しかし、確率論のみで勝負する人間は必ず消えていく、という。なぜなら、人間は必ず間違えるからだ。胴元はそれをじっと待っていればよい。

それに、科学的に見れば、博奕は絶対にハウス(胴元)側が有利になっている。カシノの控除率は競馬や競輪と比べればお話にならないくらい微々たるものだが、しかし彼らはそれで莫大な利益を得ているのである。ラスベガスの絢爛豪華な建物は博奕のあがりで建てられているのだ。

著者が実行している博奕の要諦は2つ。「勝ち手には大賭金を、負け手には小賭金を賭ける」「勝ち逃げだけが、博打の極意」。

一つ目は当たり前といえばこれ以上ないくらい当たり前の話だが、これは当然、「勝ち手」と「負け手」の区別がついていなければならない。言い換えれば、じっと我慢の時期と一気に行くべき時を見極める「勘」を養わなければならないのだ。特にいわゆる「流れの偏り」、本書で言う「ツラ」を掴むことが決定的に大事。これは多少なりともギャンブルをやったことのある人なら、実感として分かっていることだと思う。確率1/2だからと言って、赤と黒が交互に来るとは限らないのだ。

二つ目も、言葉にすると当たり前だが誰もが実践できない格言の典型。通常、博奕は浮いたり沈んだりの繰り返しである。プロは、浮いた瞬間にすかさず席を立つ。1回1回は、わずかな勝利でよいのである。そこで欲をかくから、また沈みの時期に入る。沈むと焦り、「眼に血が入る」。そうなったらアウトである。

もっとも、いくらやっても勝てないこともある。そんなときは「負け逃げ」が大事。投資でいう「損切り」にあたる。取り戻そうとすればするほどドツボにはまる。しかしこの「負け逃げ」、勝ち逃げよりはるかに難しい。

まあ、そんな感じで次々に書かれる著者の「博奕思想」は、圧巻の一言。そして、誰にとっても役に立つこと請け合いである。なぜなら、人生はある意味「博奕」の連続にほかならないからである。いたずらにリスクを恐れ、安定や安心を求める前に、プロの教えるリスクとの付き合い方を知るべきだ。