自治体職員の読書ノート

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【819冊目】森三樹三郎『老子・荘子』

老子・荘子 (講談社学術文庫)

老子・荘子 (講談社学術文庫)

老子荘子の思想の「深み」と「広がり」を一挙にたどり、その全体像を描き出す。

老子』は前に関連本を含めて読み、その内容にハマった(今でもハマっている)が、荘子はどこから手をつけていいかよくわからず、気になりつつも放置していた。そんな自分にとって、老子から入って荘子に至る本書は、最適なナビゲーションをしてくれたかもしれない。

著者は老子荘子を比較し、同じ「道」を語った両者でも、老子のほうが個人から国家まで幅広い一方で位置的には中途半端であり、荘子のほうがその思考を徹底しているとする。確かに、老子の魅力は同じ「無為自然」の境地を、個人と国家の両方に及ぼしていくその自在さなのだが、反面、荘子のような「無」の徹底には至っていない。荘子はその点、あくまで個人をターゲットにしつつ、その思想の広がりは圧倒的で、根源的。特にその根本にある「万物斉同」の凄みを、私は本書ではじめて実感できた。

老子もそうだが、荘子にあっては一切に「区別」ということを行わず、人為ということを徹底して廃する。とりわけ生と死を「同じもの」(万物は同じなのだから)として、生も死もあるがままに受け入れるというのは、ものすごい。区別を厭う荘子は、したがって言葉を信用していない。荘子にとっての言葉は、荘子自身の用いているたとえで言うと「魚を取るために筌(うけ)を用いても、魚を取ったら筌のことは忘れるものだ。兎を捕まえるのに蹄(わな)を用いても、兎を取ったら蹄のことは忘れるものだ。同じように、意味をとらえるために言葉を使っても、意味をとらえてしまえば言葉は無用になるものだ」という、その程度のものなのだ。すこし敷衍すると、意味そのものはあくまで言葉ではなく直観によってつかむものであり、そこまでたどり着くために障害物や覆いを避けてやるところまでが言葉の役割なのだ。

そのため、ことば自体に意味を語らしめても、肝心の部分は伝わらない。したがって荘子は「コトバを遊ばせる」。妄言する。そのことによって、語ることと語りえぬところのギリギリで踏みとどまる。荘子の言葉とは、要するにこの、言葉が無用となる領域のギリギリ手前にあるものなのだ、と思う。

本書は、老荘からの「広がり」についてもたいへん充実している。道教は言うまでもなく、仏教(特に禅や浄土宗)の中国定着・発展のための素地を老荘思想が作った、というのが面白い。また、中国では政治などの表向きの場面での「正統」は儒教であるが、その裏面には老荘思想道教(もっとも、この両者は基本的に別モノ)があり、「仕事場では儒教、家に帰れば道教」が中国人のスタイルなのだという。このあたりに、中国という国の一筋縄ではいかないところの、秘密の肝心のひとつがあるような気がする。