自治体職員の読書ノート

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【812冊目】夏目漱石『明暗』

明暗 (ちくま文庫)

明暗 (ちくま文庫)

言わずと知れた漱石の絶筆。

たいした事件が起きるわけではない。だいたい主人公の「津田」は小説のほとんどの部分で入院中だし、妻の「お延」もそれほど大きな動きはしない。トラブルといっても金策がらみがほとんどで、登場するのも大半が二人の親戚など近しい人間ばかり。

なのになぜだろう。読み始めたらとまらなくなるほど面白い。夫婦の間の鬱屈やすれ違い、お互いの思惑を抱えての微妙な会話の綾、あるいは議論や言い争いなどがものすごく緻密でリアルに描かれる。特に津田の妹の「お秀」と「お延」の対決は、いやはや、怖い。女性同士の会話(というと怒られるかもしれないが)にありがちな、表面上は穏やかでやんわりとしているが、裏では無数の棘が仕込まれているような、やわらかい言葉遣いの裏ですさまじい心理的攻防が繰り広げられるような、そんな応酬が延々と描かれ、そのあまりの迫力に目が離せない。

夫婦間の微妙な心の綾も絶妙に書かれている。この凄みは、悪いが独身の人にはわかりにくいところかもしれない。わけもなく相手より優位に立とうとしたり、いやみや皮肉を言いたくなってみたり、相手の親戚や友人を当て馬にしてケンカしてみたり、それでいてふとしたはずみにぴったりと心が通い合ったり、そういう夫婦の不可思議さというものが、両方の心理を両方の側から描くことでじんわりと感じられる。

そんな無数の会話でほとんどが成り立っているこの小説は、その裏側に、なんともやるせなくなるほどの、自己主張と欲得とエゴの塊のような人間像を貼りつかせている。はっきりいって、良い人間、善人というものがこの小説にはほとんど出てこない。かといってまるっきりの悪人でもない。要するに生身の人間そのものなのだ。生身の人間のエゴイズムのおぞましさをここまで痛烈に書いた小説が、あの「猫」や「坊っちゃん」で始まった漱石の、最後の最後の作品であったという意味を、どう考えればよいのだろうか?

少なくともこの小説、繰り返しになるがとてつもなく面白く、そして(未完にもかかわらず)近代日本文学の頂点のひとつでもある。特に、心理描写や会話を書かせてこれを超える小説が、現代に至るまでいったい何作あるだろうか?