自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【807冊目】フリードリヒ・ハイエク『自由人の政治的秩序』

法と立法と自由 3 自由人の政治的秩序 ハイエク全集 1-10 新版

法と立法と自由 3 自由人の政治的秩序 ハイエク全集 1-10 新版

大変面白かった。ハイエクは難しいなんて、誰が言ったんだろう?

経済学という枠組みにとらわれず、国家や民主主義、社会や文化など、非常に守備範囲の広い思想だ。しかもそのすべてが、市場への信頼という一点でみごとに一貫している。新自由主義者のバイブルといわれるのもよくわかる。

最初に周りの評価から入ったため、どうしても批判的に、いわば「文句のつけどころ」を探しながら読んでしまったのだが、それでも一気に読めたし、楽しめた。同時に、小泉構造改革やその「お手本」となったイギリスのサッチャリズムの背景にどういう論理が動いていたかが、手に取るようによく見える。もっとも、その小泉政権下で行われた「郵政解散」選挙が、ハイエクの批判する典型的ポピュリズムだったのは、皮肉としかいいようがない。

もっとも、新自由主義ポピュリズムは、イコールではないもののかなり親和性が高いように感じている。このあたりはそのうちポピュリズム関係の本も読んでいきたいので「仮留め」にしておきたいのだが、既得権益ハイエクのいう「利益集団」、小泉元首相のいう「抵抗勢力」)の破壊というポピュリズム志向性と自由競争がつながってくるのは、上の要約にもあるとおり。

民主主義に「枠」が必要であるという指摘については、今のところ全面的に賛成。そういえば、自分の中でキーブックになっている『変貌する民主主義』でも、「民主主義の限界」について論じられていた。その意味で、何を論ずるにしても「民意」がマジックワードになってしまっている今のマスメディアの状況は、かなりヤバいものがあると感じる。

ついでに『変貌する…』の虎の威を借りて本書に文句を言ってしまうと、民主主義は「自由主義のための手段」というだけでいいのか? という点が気にかかる。特に、ハイエクのいう「自由」とはほとんど経済的自由のことであり、ほとんどそれが至上価値になってしまっている。ミルあたりに言わせると、むしろ重要なのは「政治的自由」や「表現の自由」など、憲法で言うところの「精神的自由」ではないか、ということになろうかと思うのだが、どうか。

それに関連して言えば、自由権と並ぶ平等権について、ハイエクは実に冷たい。読み違えていたら申し訳ないのだが、本書を読んだ限りでは、ハイエクは機会の平等すら保障する気がなく、自由経済に任せる気であるように思える。はたして、それでよろしいのであろうか。

そして、一番気になったのは、ハイエクは「政府の失敗」については詳細に論じているのに、「市場の失敗」を考慮していないのではないか、ということだ。市場が自生的秩序であり、いわば「自然」のものだからといって、それが絶対的に信頼を置けるものかどうかは別問題だと思うのだが。むしろ両方とも構造的な失敗要因を抱えているとみて、それを織り込んだ関わり方を模索していくべきではないか。

国家と市場の関係に関する議論は、古くて新しい。一方の極が社会主義的な完全統制経済だとすれば、もう一方の極が、本書の言い方で言えば市場の「自生的秩序」に完全に任せるというやり方だろう。その間でどうバランスをとるか、簡単にいうことは難しい。

ただ、本書を読んで感じたのは、政府による一方的な統制も問題があるが、だからといって市場原理にすべてお任せ、というのもやり過ぎではないか、ということだ(ハイエクはそこまで言っていないが、近いものは感じる)。少しでも統制の余地を残したらずるずると押し切られて統制経済になってしまう、とハイエクは危惧しているが、それはドミノ理論というものではなかろうか。むしろその間のバランスをとる「智慧」こそが、政府に求められているものだと考えたい。

その意味で、これは使えるのではないかと本書を読みながらふと思いついたのが、養老孟司氏が環境問題を論じるときに言われている「手入れ」という考え方。人間が完全に自然を支配するのではなく、かといって放置するのでもない、古くから日本人が自然と関わり合う際に採ってきた方法だ。国家と市場の関係にも、こうした「手入れ」的感覚があってもよいのではないか。そんなことを、ふと思った。