自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【786冊目】瀬名秀明『インフルエンザ21世紀』

インフルエンザ21世紀 (文春新書)

インフルエンザ21世紀 (文春新書)

今年は、日本中の自治体が「インフルエンザ」に大きく揺らされた一年であった。

横浜市では「疑い例」の発表をめぐって厚労省との行き違いが大臣と市長のさやあてに発展した。神戸では修学旅行帰りの発症者を出した学校に陰湿な差別や醜悪なバッシングが起きた。それ以外にも、発熱外来をめぐる混乱、学校や施設の運営、イベント開催をめぐる判断、感染者に関する情報提供、マスク調達、ワクチン接種の順序をめぐる情報の整理……。あまりにも「見えない」ものが多く、確定情報と未確定情報が入り乱れる中、誰もが待ったなしの判断を迫られた。特に保健所などの担当部署は本当に大変だったと思う。

一方で、危機管理というものを肌身で知ることができたのは大きな収穫であった。世界の感染症対策はSARSを機に大きく進んだが、国内発生がほぼなかった日本はそれに乗り遅れたと言われた。今回の新型インフルエンザは、そんな日本の感染症をめぐる危機管理を一気に推し進め、世界がその内容に注目するまでとなった。そんな中、新型インフルエンザとはなんだったのか、われわれが経験したものとは一体なんだったのかを現時点で一度振り返り、今後にむけた総括を行っているのが本書である。

この本は相当な力作である。新型インフルエンザに限らず、インフルエンザ全般について総括するものとして、おそらく現時点でもっとも充実した一冊。多様多彩な人々に対するインタビューをもとに構成されている。保健所などの公衆衛生、医療従事者、メディア関係者、WHOや厚生労働省の最前線、ウイルス研究など、どのインタビューも、それぞれの「現場」から発信されていることが特徴だ。インタビュアーであり、書き手となったのは瀬名秀明氏。東北大で博士課程まで修了した薬学博士であり、『パラサイト・イヴ』で一世を風靡したプロの作家である。科学の最前線の知見と臨床の現場、政策形成の現場をつなぎつつ、インフルエンザをめぐる今回の動きの全貌をつかみだすという「離れ業」には最適の人選であろう。また、本書の監修者として名前が挙げられている鈴木康夫氏は、インフルエンザとは切っても切れない「糖鎖ウイルス学」の研究者であり、著者のお父様でもある。第2章はその研究分野であるシアロ糖鎖について集中的に取り上げており、本書を科学書として奥行きのあるものとしている。

さまざまな現場の第一線の人々が今回体験した「新型インフルエンザ騒動」について語り、それを著者が明確な視点と手さばきで整理していく。著者がすぐれた作家であると同時に、すぐれたインタビュアーであり、編集者であることが分かる一冊である。本書の最後に、著者はそれぞれの現場をつなぐ視座として「想像力」の重要性を訴える。それによって、ばらばらだった個々の「現場」が有機的につながりあい、その「向こう側」が見えてくる。ウイルスという存在がもつ意味、国境を超えた視点の重要性、国によって全く違う前提条件、日本という社会の構造。誰もが自分の「現場」を守ることに必死になっている。しかし、その隣にある「もうひとつの現場」に思いをいたすことから、まったく違った世界が見えてくる。そのことを本書は、インフルエンザという「極限事例」を通して教えてくれる。そして自治体関係者にとっては、科学や疫学の考え方やメソッドをどうやって具体的な行政活動に結び付けていくか、危機管理という「異例」の事態をどう乗り切り、何をそこから学び取るべきかといった、感染症危機管理のエッセンスが詰まった一冊でもある。