自治体職員の読書ノート

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【778冊目】ハンナ・アレント『ラーヘル・ファルンハーゲン』

近代ヨーロッパの「知」をはぐくんだ場所のひとつが、サロンであった。

サロンの「主」として君臨したのは、多くが女性であった。そこに知の絢爛を競う男たちが集まり、議論し、交流した。その中からこそ、ヨーロッパの啓蒙思想ロマン主義的な芸術が飛び出した。

特に有名だったのはフランスのサロンであるが、一方、ドイツにも著名なサロンがあった。その中でもおそらく最大の「ロマン派サロン」の中心となったのが、本書の題名にもなっているラーヘル・ファルンハーゲンであった。

それは何と、ベルリンのイェーガー街の屋根裏部屋に始まった。そこにはあらゆる階層の人々が集まってきた。プロイセン王家の血筋を引くルイ・フェルディナント皇、その義兄弟ラドツィヴィル公爵、枢密顧問官シュテーゲマン、スウェーデン公使ブリンクマン、ユダヤ人医師ダヴィッド・ファイト、俳優フレックと女優ウンツェルマン、歌手マルシェティ、ボヘミアンのパハタ伯爵夫人、言語学者と博物学者・地理学者のフンボルト兄弟、ロマン派の思想家シュレーゲル、ロマン派詩人ブレンターノ、古典学者ヴォルフ等々。そこにいたのは、当時のベルリンの知的世界を代表する最重要人物ばかりであったという。さらに、直接サロンに加わったかどうかは不明であるが、ラーヘルはゲーテやハイネとも会っており、フィヒテにもかなり熱中していたことがうかがえる。

このような「場」をラーヘルが設けることができたのはなぜなのか。ひとつの理由はラーヘル自身の知的魅力であろうが、もうひとつ挙げるとすれば、彼女がユダヤ人であり、当時のドイツ社会の「外」にいた存在であったことが影響しているように思われる。社会階層の外側にいたからこそ、ラーヘルはさまざまな階層・職種の人々を「知」という一点をもって引き付け、自由な議論の場をつくりあげることができたのである。

もっとも、ラーヘル自身はユダヤ人という自らの出自をあまり肯定的にとらえておらず、むしろそこからの離脱を考えていた節がある。ユダヤ人にはまた独特のユダヤ人社会というコミュニティがあるのだが、ラーヘルはそこからも離れた場所に身を置こうとした。一度はなんと、そのために改名までしているのである。

さらに、彼女は恋愛においてはいろいろ苦労が多かったようである。18世紀という時代にあって、知的にとびぬけたものをもっていた女性が、「誇り高き」凡庸な男性となかなかうまくいかないという事情はわからなくもない。実際、彼女は恋人をこの「屋根裏部屋のサロン」に連れて行って当時のベルリンの知的エリートたちの間に放り込み、ずいぶん気まずい思いをさせたりもしたようである。最後はアウグスト・ファルンハーゲンと恋愛の末に結婚するのだが、このファルンハーゲンにしても、小説や詩のセンスもなく、哲学評論は陳腐な、まるで中途半端な教養人であったという。

なお本書を書いたのは、政治哲学者ハンナ・アレント。自らもユダヤ人であり(収容所にも入っていた)、全体主義ナチスユダヤ人虐殺についての著書も多い。もっとも、本書が書かれたのは1933年(一部は1938年)であり、ナチスが台頭しつつあるが、まだユダヤ人政策が全面に打ち出されるところまでは至っていなかった。しかし、18世紀のプロシアでも、ユダヤ人の立場はきわめて微妙であり、ラーヘンも「ユダヤ人」という出自に影響され続けていた。その中でベルリンの知を結集したサロンを運営していたラーヘンに、若きアレントが自らの立場や将来を重ねていたと思うのは、考えすぎであろうか。