自治体職員の読書ノート

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【748冊目】立川武蔵『聖なるもの俗なるもの』

聖なるもの 俗なるもの ブッディスト・セオロジー(1) (講談社選書メチエ)

聖なるもの 俗なるもの ブッディスト・セオロジー(1) (講談社選書メチエ)

「ブッディスト・セオロジー」と題するシリーズの第1巻。「仏教の神学」という意味であるが、実際、宗教全体の中に仏教を位置付け、仏教を軸に宗教全体を語る内容となっている。実際に大学で行われた講義を活字に起こしたものがベースになっているらしい。

本書はその入口とのことで、「宗教とは何か」といった基本的で根源的な(それゆえに、実はもっとも難しい)テーマが扱われている。タイトルの「聖なるもの」「俗なるもの」という区分が、そのひとつのキーワードになってくる。

聖なるものとは、著者によれば「単に崇高とか優美というのみではなくて、われわれが畏敬の念を持って扱わなくてはならぬもの、非日常的で非常に力のあるもの」を指す。そして、宗教とはその「聖なるもの」にまつわる「行為」であるという。したがって、「神はいてもいなくてもどちらでもよい」ということになる。

では、その行為にはどういった種類があるか。著者はこれを大きく「集団的宗教行為」と「個人的宗教行為」に分けて、この両者にはかなり異なる性質があるという。キーワードはさきほどの「聖なるもの」「俗なるもの」に加え、「浄なるもの」「不浄なるもの」という、もうひとつの概念。ここで重要なのは、「聖なるもの=浄なるもの」「俗なるもの=不浄なるもの」とは限らないという点。特に集団的宗教行為では、「聖なるもの」の中に「浄なるもの」と「不浄なるもの」の両方が属するとされる。

集団的宗教行為の典型は、葬儀である。葬儀には文化や宗教によっていろんなパターンがあるが、日本での一般的な葬儀を考えると、まずそこは「聖なるもの」=遺体が中心となる儀式である。遺体は「聖なるもの」の典型例。ここで、遺体は最初、不浄な存在として扱われる。これを、儀式を通して「浄」なる存在に変容させるのが、葬儀の目的のひとつということができる。しかし、「死の不浄性」は、葬儀が行われただけで完全に払拭されるわけではない。「お清めの塩」や「喪中」の習慣は、そうしたことを示唆するものである。

一方、個人的宗教行為では、「聖なるもの=浄なるもの」「俗なるもの=不浄なるもの」という定式があてはまるケースが多い。個人的宗教行為は、自らを「俗なるもの」とみなすところから始まる。俗なる自己を否定して、祈りや修行などによって宗教的な飛躍・超越を体験し(典型的なのは禅における「悟り」)、「聖なるもの」に達していく。その後、俗なる世界に戻ってくるとしても、その人にとってそれは「聖化された俗」である。浄・不浄にからめて言えば、「俗にして不浄」であった主体が「聖にして浄」のレベルに達することで、日常に戻ってきても「俗にして浄」となる。これが個人的宗教行為のめざす状態である、ということであると思われる。

仏教的な世界観や宗教観が軸になっているため、キリスト教イスラム教的な宗教観からするとはいりにくい面もあるかもしれないが、民俗信仰や祭儀にまで視野の及んだ、とても明快でロジカルに「宗教の構造」を解説した一冊である。この後はそれこそ仏教を正面から扱う内容になっていくようであるが、続けて読んでいきたいシリーズである。