自治体職員の読書ノート

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【747冊目】ルネ・ジラール『このようなことが起こり始めたら…』

フランスの思想家ルネ・ジラールの思想の要諦を、対話形式で掘り出した本。ジラールの本としては比較的コンパクトながら、その思想のポイントを非常にわかりやすく示すものとなっている。

その内容は現代社会の様相から科学、宗教、デモクラシーと多岐にわたるが、その基本になっているのは、ジラール独特の「供犠」という概念である。ジラールはまず、世の中の人々は「他人が欲しがるものを欲しがる」という欲望をもっており、同じものに群がる性質がある。「欲望の同一性」に基づく「模倣」である。同じものに人々の欲望が集中するため、「争い」が生じ、「敵対者」に対する「暴力」が発現する。もっとも、集団の構成員が相互に「敵対者」となる代わりに、人々は無実の犠牲者を選んでスケープゴート=「身代わりの山羊」とし、「供犠」によってこうした敵対感情を押し込めることで、共同体の統一を保つことができるのである。

したがって、われわれの共同体が維持されているのは、模倣によって引き起こされた暴力を(おそらくは、本人の望まぬうちに)引き受けている無実の「身代わりの山羊」がいるためであり、かれをいわば人柱として、その土台の上に社会が成立しているのだ。ジラールが暴いたのは、ごく大雑把に言ってしまえばこういうことであった。ところが、こうした社会構造に対する大きなアンチテーゼを突きつけた存在があったと、ジラールは言う。それが、イエス・キリストであった。

キリストは自らが「受難者」であり、人々の罪を肩代わりして犠牲となった「身代わりの山羊」そのものであった。つまり、キリストはそれまで隠されていた「供犠」のシステムを、目に見えるようにしてしまったのである。姦通を犯した女性を石で打ち殺そうとしている人々に対して、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と語った。この一言で、イエスは「模倣の雪崩」を起こそうとしている群衆に対して「最初のひとり」である個人の次元に還元したのである。この女性が「身代わりの山羊」として、つまり自分やその身内がもっている「つまづき」を押しつける対象として選ばれていることを明確化し、模倣と供犠のメカニズムを白日のもとにさらしたのだ。本書でもっとも読み応えのあった部分である。

さて、このようにして、キリスト教が供犠のシステムをある程度暴きたて、無実の犠牲者、受難者をクローズアップしたことは確かであるが(もっとも、一方で教会そのものが「身代わりの山羊」を仕立て上げるような事例もあった。魔女裁判などはその種のものであろう)、その結果、今度は奇妙なことに「犠牲者こそが権利をもち、迫害者となる」という事態が起きてきた。ニーチェキリスト教を攻撃し、「超人思想」を唱えたのはまさにこの点であった。だが、いまだに「犠牲者という強者」が幅を利かせているのは事実である。被害者と称する人々こそが、実はもっとも遠慮のない、もっとも強大な権力者であるという例は、現代の日本でもたやすく見つかるであろう。