自治体職員の読書ノート

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【735冊目】モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

もともと、世界は渾然一体としていた。自己と他者、モノとココロ、生命と物質、すべてはつながりあい、かかわりあい、世界は暗喩と符合に満ちていた。言い換えれば、世界は魔術的であった。

これを打ち崩し、新たなパラダイムを開いたのが、ベーコンであり、デカルトであった。それは、「分ける」思想であった。自分と他人を分け、物質と精神を分け、世界は分割可能なパーツの集合物とみなされた。それはまた、人間を自然の「外部」に置き、自然を操作しうるとする発想でもあった。近代合理主義、近代科学の幕開けである。

もともと科学、とりわけ化学のルーツのひとつは錬金術であった。錬金術というとずいぶんアヤシゲな世界に思えるが、実は中世の錬金術は、世界と人間精神の奥深くに通底する「意味」をシンボライズし、「人間の無意識を体系的に図像化する、西洋最後の壮大な企て」だった。しかし、デカルト的な近代合理主義の枠組みにからめとられるうちに、錬金術の豊饒な世界は失われていった。なお、近代科学の礎を築いたニュートンが実は熱心な錬金術の信奉者であったことが本書では暴かれている。自然の豊饒性に魅了された若き日のニュートンから、機械論的で無機的な自然観をもつようになった後年のニュートンへの変化は、近代科学そのものが錬金術から何を受け継ぎ、何を棄ててきたのかを暗示しているようで興味深い。

さて、こうした「デカルトパラダイム」は、近代科学の発展、さらには産業革命を経て、思想や哲学のひとつを超えて西洋型社会全体を支配するに至った。そのおかげでわれわれは便利なテクノロジーを享受できているが、一方で歯止めなく発展する科学技術、自然へのゆきすぎた「支配」による大規模な環境破壊など、その弊害はおびただしい。また、合理性を追求するあまり、人間の生活からゆとりや潤いが失われ、未開社会と比べて「幸福」な生活を営むことができているかどうかも疑わしくなった。

もっとも、こうした近代合理主義一辺倒に対しては、従来からこれに対抗する動きがないではなかった。その主力がいわゆるオカルトであり、ニューエイジ・サイエンスであったのだが、その中で、思想という面でデカルトパラダイムへの決定的な反撃となる(と著者が考えた)のが、本書の主役でもあるグレゴリー・ベイトソンの思想であった。ベイトソンは未開社会でのフィールドワークを通じて、西洋の近代合理主義に対抗しうる世界観を打ち出したのである。曰く、事実と価値は不可分、自然は我々との関係の中で明らかにされ、諸現象はコンテクストの中でのみ知りうる(外部の観察者ではいられない)、循環的時間、精神と身体・主体と客体は同じプロセスの両面である……(本書P.274〜)。

こうした世界観を、著者は「世界の再魔術化」と位置付けている。もっとも、これは単純な古代回帰というわけではないように思う。むしろ、デカルトパラダイムを経た上で、その先にある世界観というべきであろう。その点で、近代合理主義の洗礼をまともに受けた西洋社会におけるベイトソンの受け止め方と、これを漱石のいう「上滑りの近代化」によっていわば半端に輸入した日本におけるベイトソンの受け止め方は、違ってしかるべきである。むしろ、日本は近代化の過程でそこかしこに(かろうじて)残っている日本的な習慣や考え方と、ベイトソンの世界観の共振性を探るべきではないだろうか。