自治体職員の読書ノート

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【727冊目】松岡正剛『フラジャイル』

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

一読、とにかく驚かされるのは、よくぞここまでと思えるほど、世界中の思想、宗教、歴史、文芸、科学、アート等々から「弱さ」「はかなさ」「こわれやすさ」にまつわる事象ばかりを取り上げ、組み合わせ、編集配列してあること。膨大な事象を、既存の枠組みにまったくとらわれず、タテヨコナナメに編み上げてひとつの知の織物に仕立て上げていく、その構築力はやはりとてつもない。しかもその構築物は頑丈な鉄や石ではなく和紙やヴェネチアン・ガラスでできており、その接合部には、ネジやビスのかわりに薄暮やノスタルジアが息づいているのである。

 それにしても、著者の手にかかれば身の回りにもふんだんに発見できる「フラジリティの兆候」を、なぜ私も含む(たぶん)世の中の多くの人々はいつも見過ごしていたのだろう。そのひとつの理由は、本書の中でも指摘されているように、私を含む多くの現代人の意識や志向性が、あまりにも「強さ」の方向にばかり向いているためであるように思う。成績優秀、スポーツ万能、みんなの人気者、ビジネスの勝ち組、株式一部上場、人生の勝者等々、そんな言葉で煽られて、遠くの目標や理想ばかりを仰ぎ見る日々の中、足元の小さく弱きものになど気づくことさえない。

しかし、そもそもわれわれは、なぜ強さばかりを追うようになってしまったのか。やや安直かもしれないが、原因を2つほど考えてみた。

ひとつは、「強さ」の度合があまりにも強くなりすぎたこと。たとえば兵器であれば、剣や弓矢が鉄砲になり、大砲になり、化学兵器になり、核兵器になる。ビジネスの世界でいえば、株式会社が生まれ、資本主義が帝国主義と結びついて世界中に拡大し、低賃金でつくられた原価の低い製品が圧倒的な物量で市場を席巻する。さらには金融工学が「発達」し、将来の破綻が見えていようとも、短期的に収益を積み上げなければ負けてしまう。そうした、おそらくは産業革命以来の「強さの歴史」の中で、「弱いままでいる」ことが、次第に難しくなってきたのではないだろうか。

 もうひとつ、身近から「弱きもの」が見えづらくなったことも、理由として挙げておきたい。それは小さな子どもであり、障害者であり、病人であり、お年寄りであり、究極的には「死者」である。職住分離がすすみ、昨今のビジネスマンのほとんどは、往復は早朝深夜の満員電車、昼間に身を置くビジネス街には「大人」の姿しか見当たらない。さらに、福祉行政の名のもとに「施設」が整備され、保育所や授産所や特養ホームが彼らを受け入れ、意地悪く言うなら「隠して」しまったこともあるだろう。

 身近に「弱きもの」が見えなくなると、彼らへの配慮を通して「弱きもの」への感性をはぐくむことが難しくなるだけではなく、彼らを通して自分自身のフラジリティを感じる機会を奪われてしまう。このことは案外大きいと思う。特に「病」と「死」が病院や施設のなかに封じ込められてしまったことは、まさしく致命的。私自身についていえば、近親者の死に触れる機会は最近ないが、6歳と3歳の子供、痴呆と歩行困難がすすんだ祖母が身近にいることによる日々の経験が、本書を理解するための助けになっていると感じた。

 さて、子供の話に関連して言えば、こうして「強さ」が幅を利かせている世の中であるが、誰もが最初は「弱かった」ことをここで思い出しておきたい。本書にはネオテニーをめぐる充実した一章があるが、まさしく、ほかの動物と比べても、人間ははるかに「弱く」生まれてくるのである。それに比べて、強さというのはむしろ後付けのもの、後天的で獲得的なもの。あえて宣言的にいえば、「弱さは先天的、強さは後天的」、「弱さこそが人間の本来」と言ってよいと思う。

ということは、「弱さに着目する」とは、実はそれを通じて、自分自身の本源的ななにかに触知することなのだ、ということになる。強さが自分の外部にある「追い求める対象」であるとすれば、弱さはむしろ、自分の内部のいちばん深いところに息づいているのである。さらに、このあたりは理屈で説明しがたいところなのだが、自身の裡にあるフラジリティは、外に「弱いもの」「はかないもの」「壊れそうなもの」を感知すると、音叉のようにそれと共振してくれているような気がする。案外そのあたりが、自分の中の幼ごころや切実さと世界の知を結びつけて共鳴させていくためのキーポイントなのかもしれない。