自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

小島てるみ『ヘルマフロディテの体温』『最後のプルチネッラ』(#667〜#668)

ヘルマフロディテの体温

ヘルマフロディテの体温

最後のプルチネッラ (Style‐F)

最後のプルチネッラ (Style‐F)

聞きなれない作家だと思ったら、著書はどうやらこの2冊だけらしい(イタリア語の著作はあるのかもしれない)。ところが、この2冊が2冊とも、とんでもない傑作。手放しで絶賛したい。

『ヘルマフロディテの体温』は、こう始まる。

「僕が十歳の時、仕事でナポリに行った母が、そのまま行方不明になった。三年後、もどってきた母は「男」になっていた。」

母だけではない。この小説は、とにかく「男」と「女」の間を行き来する人々で彩られる。女装することに快感を覚える「僕」ことシルビオ。ペニスとヴァギナの両方をもつ「真正半陰陽」のゼータ教授。男性から女性への性転換手術を行ったトランスセクシャルのタランティーナ。イタリア南部、ナポリを舞台に、異性を装う者、異性になった者、両性を具有する者が入り乱れる。

さらに、ゼータ教授の「出題」に応えてシルビオが紡ぎだす物語が、その中に入れ子構造のようにはいりこむ。去勢によって「天使の歌声」を手に入れたカストラートや、両性具有の象徴である人魚や神々の物語。それはまた、性別というものをめぐり、あるいは心の性と体の性の違いに引き裂かれ、あるいは性転換によってからだを「越境」し、あるいは両性具有であることによる孤独と苦悩を引き受ける人々の物語でもある。

そしてその中で徐々にあきらかになるのは、普段、ともすれば当たり前だと思っている「性」というものが、実は「男と女」の単純な二項対立ではなく、複雑で多重性をもつということ。じっさい、ゼータ教授のような「真正半陰陽」として生まれる子供は現実に少なからず存在するのだ。ちなみに、表題の「ヘルマフロディテ」も、ギリシア神話の神の名から転じて、両性具有を意味する言葉だという(英語の「インターセックス」のほうがなじみはあるかもしれない)。

こんな難しく微妙なテーマを処女作で選ぶところもすごいが、さらにすばらしいのは、このテーマを決して興味本位や見世物主義的に扱わず、真摯に正面から向き合った上で、複数の物語を重ね合わせるという超絶技巧も見せつつ、小説として一気に読ませる力量である。ナポリの情景描写も見事、シルビオの心理の襞もきめ細かく描き出していく。お見事!

もう一冊の『最後のプルチネッラ』もナポリが舞台。こちらも二つの物語が並行して進むという「物語の多重構造」が生きている。「現代編」は現代のナポリを舞台に、謎の「黒い道化師」のもとで風変わりなワークショップに挑む二人の少年を追っていく。一方は演劇の名門に生まれ、伝説的なプルチネッラを祖父にもつルカ(そうそう、プルチネッラとは「道化」のこと)。もう一方はナポリ庶民の貧しい家庭に生まれ、大道芸で金を稼ぐジェンナーロ。彼らは劇舞台「最後のプルチネッラ」の稽古を通して、ナポリに伝わるプルチネッラの謎に迫っていく。

もうひとつの物語、「転生編」は、死んでも死んでも転生を繰り返す「おいら」の視点から、ナポリの歴史を俯瞰していく。その中で徐々に明らかになってくるのは、大国同士の争いに翻弄されつつしたたかに生き抜くナポリ市民の姿と、その中で登場してくる道化プルチネッラ。そして、現代編と転生編が重なり合うラストで、この小説が何を書き続けてきたのかが明らかになる。

それは、ナポリという都市そのものである。プルチネッラとは、ナポリという、貧困と格差にまみれつつ底抜けに陽気で明るい都市そのものなのだ。そのことを象徴する、ラスト近くになって黒い道化師が発する次の一言に、私は読んでいてずしんときた。

「プルチネッラとは悲しみを抱きしめて、それでも生きて笑うことを選び続けたすべてのナポリ人、ナポリの魂なんだよ」