自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【665冊目】辻邦生『背教者ユリアヌス』

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)

ユリアヌスは、「大帝」と呼ばれたローマ皇帝コンスタンティヌスの弟ユリウスの子。大帝の死後、皇位に就いた息子のコンスタンティウスのもとで家族を殺害され、本人も幽閉の日々を送るが、ひょんなことから宮廷内の抗争の余波を受けるようにしてガリア担当の副帝となり、そこで圧倒的な戦果とガリア人たちの信任を得る。しかし、そのことがかえって皇帝の猜疑心をあおり、ガリア兵の半分をペルシア掃討に送るよう命じられる。反発したガリア兵たちはユリアヌスを皇帝に担ぎ出し、ローマ帝国に侵攻するが、途中で皇帝コンスタンティヌス自身が死亡。ユリアヌスは思いがけなくも正統の「ローマ皇帝」を承継することになるが……。

実在のローマ皇帝ユリアヌスの生涯を描いた大河小説。文庫で3冊の長編だが、読み出すと惹き込まれて止まらなくなり、あっという間に読み終えてしまった。特にユリアヌスが死ぬことが分かっていて読み進めるペルシアとの戦いは、読み終わるのが惜しくてたまらなくなった。この小説が世間にどれほど知られているのか分からないが、とんでもない傑作であると断言する。

全編にわたって骨太のストーリーラインがどっしりと流れ、いささかの破綻も緩みも見せないのが圧巻だし、さらに人物の造形が深く、描写が的確。特に主人公のユリアヌス帝が魅力的である。学者肌で私利私欲がなく、皇帝に就く人間にはありえないほど清廉潔白な人柄。皇帝として君臨するより静かな学究の日々を送りたいと願っているが、戦争となると無敗を誇り、行政も平等で温かみがある。

こう書くとずいぶんウソくさい人物像に思えるが、読んでいると全然そう感じない。それは、作者がじっくり、丁寧にユリアヌスの人物像をつくりあげ、実にこまやかに描写しているためであろう。特に、その後ユリアヌスを支えることとなったサルスティウスがユリアヌスと出会った折の印象を述べた箇所は、その魅力と特質をあますことなく言い当てているように思う。

「…人間が、このように純粋に理想を追い求めうるなどと、誰が考えたろうか。なるほど人は哲学を学ぶ。文学を修め、修辞学を研究する。だが、いずれ、そうしたものが、この世の猥雑さのなかで、ねじまげられ、稀釈され、元の形も見えなくなることを知っている。どこかに、そうした現実への諦念を感じている。しかしこの若い副帝は、そうしたことを辛い境遇のなかで知らされながらも、なお、人間本来の夢のような理想に憧れている。(略)自分が皇帝の虚名のために選ばれたことも、多くの売名だけの野心家たちがガリアに乗りこんだことも、知ったうえで、この人は、なお、人間が、よきことを為しうるし、為さなければならぬ、と信じている。なんという現実離れした夢想であろう。だが、人間が地上に生れて、ただ一回きりの生をしか生きられないのなら、人間が果たせぬ夢と思い描いたこの美しい夢を、どうして描かずにすますことができるだろう……」

そしてユリアヌスは、苦難にまみれた生涯を通じて、最期までその「夢想」に殉じるのである。その一生を描いたこの小説は、人間の理想の一生とは何か、という問いかけを、ひるがえって読み手に突き付ける。実際、われわれは「現実への諦念」にいかにやすやすと身をゆだねてしまっていることか。

さらに、こうしたユリアヌスの生涯にまとわりついてくるのが、キリスト教という存在である。コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認したことから、教会が次々に建てられ、司教たちが権勢を握り始めている。彼らはギリシアにルーツをもつローマ古来の宗教と衝突し、さらにキリスト教内部での宗派対立を起こす。一方、ユリアヌスはプラトンアリストテレスの理性と哲学を奉じる人間であり、キリスト教の粗雑な論理や、異教徒への極端な排撃にがまんならない。この、ユリアヌスとキリスト教との「思想戦争」「宗教戦争」が、本書を貫くもう一本の縦糸となっている。

そして、本書で描かれたキリスト教の病理、その権威主義と不寛容性こそは、実際に中世から近世にかけてのヨーロッパを席巻する。免罪符、魔女狩り、十字軍、宗派抗争……。その「発端」のひとつが、ローマのキリスト教公認にあったことを、本書は認識させてくれる。

繰り返すが、本書は傑作。小説の中の小説、これぞ小説、というべき存在である。日本文学史、否、世界文学史に残るべき作品と言ったら、言いすぎであろうか。