自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

白川静『漢字の世界2』『中国古代の文化』『中国古代の民俗』(#654〜#656)

漢字の世界 2 (平凡社ライブラリー)

漢字の世界 2 (平凡社ライブラリー)

中国古代の文化 (講談社学術文庫)

中国古代の文化 (講談社学術文庫)

中国古代の民俗 (講談社学術文庫)

中国古代の民俗 (講談社学術文庫)

引き続き、白川静を読み続けている。

相変わらず、読んでいると、その密度の高さに圧倒される。さらりと書かれた一行・一文に、いったいどれほどの労力と思索が込められているのだろう。白川静以外に、ひとつの漢字解釈を通して、これほどの豊穣で鮮やかな世界観を示すことのできる人がいるだろうか。

『漢字の世界1・2』と『中国古代の文化』『中国古代の民俗』は、内容的にはやや重なる部分が多い。いずれも、漢字のルーツとなった甲骨文や金文の文字を読み解き、そこから古代中国の人々の生活や習俗を展開していくという方法を取っている。驚くべきは、生活のあらゆる局面に神や邪霊などとのかかわりが存在し、両者がほとんど一体となっていた点である。葬礼や舞楽はもちろんのこと、裁判、刑罰、戦争、農事など、およそ呪術的意味をもたないものは存在しない。

そして、もうひとつ重要なことは、こうした当時の文化や民俗をあきらかにするにあたり、白川氏がほとんど文字の解釈のみをもってあたっているという点であろう。しかし、なぜそのようなことが可能なのか。それは、白川氏によると、文字に刻まれることでその思念は時代の変化による変容をまぬがれ、「その文字形象のうちに、無文字時代の長い生活の記憶が、集約的に形象化されている」がためである。

この部分を読んで思い出したのは、マイケル・クライトンの「ジュラシック・パーク」に出てきた、琥珀に閉じ込められた蚊のすがたであった。あの蚊が琥珀に閉じ込められることで恐竜の遺伝情報を体内に保全していたように、甲骨文や金文もまた、当時の姿をそのままにとどめることによって、その内部に当時の文化や民俗のすがたを保つことができたのかもしれない。

特に「民俗」がこのような「文字学的方法」によって解き明かされるのは衝撃的だった。私自身は、民俗学といえば柳田国男などが行ったような「聞き取り」「聞き書き」によって、いわば無文字情報を通じて、文字による記録では残されていないものを探り当てる学問であるというイメージしかなかったのだが、白川氏はむしろ漢字を民俗学上のすぐれた資料のひとつと評価している。その理由は、第一に「成立の同時性」つまり一定の時期にいっせいに成立したこと、第二に「その文字構造が、その時代の観念や思惟の方法を示している」ことだという。特にこの「第二」の特徴は、白川漢字学の神髄を端的に明らかにするものであり、白川東洋学のキーフレーズと言ってもよいように思われる。

個別の漢字解釈についても驚きの連続、世界観がひっくり返されることの連続であったのだが、ひとつ印象的だったものを挙げるなら、『中国古代の文化』にあった「婦」という漢字を通じて展開される女性論だろうか。このくだりは、おそらくフェミニストの方は必読であろう。

この文字は女に「帚」つまりほうきを組み合わせたものであると一般によく言われる(女性は家事をやるものだと決めつける際に持ち出されたり、逆に男女同権論者にはこの字をあえて使わない人もいる)。確かにこの「帚」はほうきの意味である。しかし、それをもちいて行う「掃除」は、単なる日常の行為を意味しない、と白川静は言う。

「掃除」とはそもそも祭壇を清めるという宗教的な行為であった(「除」は、「へん」が神の降りてくる梯子、「つくり」は呪器の一種)。また、「寝」という字も元々は「帚」を廟中に置くかたちであり、祖霊を祭る際に酒をふりそそいだ帚で祭壇を清めるのが当時のならいだったという。そして、こうした祭祀につかえる役割を担っていたのが「婦」すなわち女性であったのだ。

さらに「敏捷」という言葉がそれぞれ祭事にいそしむ女性を表すこと、「参」はかんざしを、「齋」はそれが並べてさされているさまを表し、いずれも祭事にのぞむ女性を表すこと、「若」という字が髪を振り乱した巫女(神託を告げる)の姿を表すことなど、女性こそが祭祀にあたっては中心的な役割を担っていたことを意味する文字を立て続けに挙げ、『詩経』や古事記におけるアメノウズメのエピソードまで織り込んだ後、白川氏は結論する。古代の宗教がその霊能と厳粛さを失い、権威をおとし、政治的な社会が成立するとともに、宗教者の地位は急速に低下し、婦人の地位も失われていったのだ、と。

つまり、女性はそもそも男性とは異なる、しかし同様以上に重要な役割である祭祀(神を祭り、その言葉を聞くことは、古代における最重要事であった)を担っていたのであり、宗教者の凋落に伴って女性の地位が低下した後も、「婦」という文字こそは、かつての女性に与えられていた位置づけの重要さを現代に語り伝えているのである(「婦」という文字を追放しようなどとは、とんでもない話である)。この解釈には、安易な男女同権論やもっと安易な男尊女卑論を一息で吹き飛ばすものがある。そしてこの3冊は、とにかく全編、そんな調子なのである。読んでいて圧倒されるのも分かっていただけるのではないか。