自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

アルジャーノン・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』・萩原朔太郎『猫町』(#652)(#653)

妖怪博士ジョン・サイレンス (角川ホラー文庫)

妖怪博士ジョン・サイレンス (角川ホラー文庫)

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

いつも拝見させていただいている読書ブログの中でも、四季さんの「ciel bleu」は図抜けている。読書量から読む本の幅の広さ、センスのよさ、ピンポイントの感想。何より、一冊一冊の本に対する愛情と敬意があふれているところがすばらしい。

その中で萩原朔太郎の『猫町』が取り上げられ、解説の孫引きではあるが、ブラックウッドの『古き魔術』がよく似た内容であると紹介されていたのが、今回ブラックウッドを読むきっかけになった。ちなみに今回読んだ角川ホラー文庫版では「いにしえの魔術」と訳されているが、実はこれもすでに絶版のもよう(今回は図書館で見つけた)。ただ、今年になって新たに『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』として東京創元社から刊行されているらしい。

心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿 (創元推理文庫)

心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿 (創元推理文庫)

何やら凄い表紙で惹かれるものがある。表題の訳も『心霊博士』のほうがぴったり。『妖怪博士』じゃ水木しげるの世界である。

ほかにもブラックウッドには『ジンボー』『ケンタウロス』など傑作といわれる作品が多くあるが、ほとんどが日本では絶版。一時は英国怪奇小説の代表的作家であったというが……。ただ、実は今回、ブラックウッドを3冊続けて読もうと思い、『ジョン・サイレンス』は最後まで面白く読めたものの、2冊目の『ケンタウロス』はいまひとつ入り込めず、途中で本を閉じてしまった。何と言うか、これらが書かれた20世紀初頭の人々の心理状況や興味の所在があまりにも強く刻印され、それにどうもついていけなかったのだ。ポーやラヴクラフト、ドイルなどの小説は、一見同じようなテイストでも、わりとすぐ入り込めるのだが……。

さて、『ジョン・サイレンス』は、心霊現象や神秘学にくわしい医師ジョン・サイレンスのもとにさまざまな怪奇現象の相談が寄せられ、それを博士が解決したり、謎を解いたりしていくという、いわば心霊版シャーロック・ホームズといった趣の短編集。「いにしえの魔術」「霊魂の侵略者」「炎魔」「邪悪なる祈り」「犬のキャンプ」「四次元空間の囚」の6編が収められている。

猫町」との類似が指摘される「いにしえの魔術」は中世の魔女裁判を下敷きにした怪異譚であるが、ほかにもミイラの呪いや人狼など、超自然的な存在や事件がベースになっている物語ばかり。どの短編も、あやしげな設定とゴシック・ロマンス風のやや過剰な心理描写、ものものしい解説がぴったり調和した、まさしく古き良き怪奇小説の申し子である。

一方、萩原朔太郎の『猫町』は、表題作のほか小説、散文詩、随筆を集めた薄い一冊。ブラックウッドの濃厚怪奇な英国小説を堪能した後に読むと、その文章がやけにすっきりとしたものに感じられる。とはいえ、『月に吠える』『青猫』の幻想詩人の作であるから、その言葉の選び方、幻想に満ちた描写はやはりただごとではない。

散文詩の中では「郵便局」「貸家札」が強く印象に残った。「郵便局」は、そうそう、確かにそういう「のすたるじや」が郵便局にはあるよね、とうなずきたくなる一篇。一方「貸家札」はダリの絵のような意味不明だが鮮烈な印象。朔太郎の詩に時々みられる、一見飛躍しているイメージの奇妙な同居を思い出す。

また、読んでいてどきっとしたのは「自殺の恐ろしさ」(これはすごくわかる。自殺の名所とかに貼っておくとよいのではないか)と「詩人の死ぬや悲し」(私には詩の才能は全然無いが、現世での業績を讃えられて「そんなものが何になる!」と叫びたくなる気持ちだけは痛切に理解できる)。朔太郎自身もまた抱え込んでいたであろう、詩人の魂の孤独と絶望がうかがえる。

中で明らかに小説と言える作品は「猫町」「ウォーソン婦人の黒猫」「日清戦争異聞」の3篇だが、特徴的なのは、どれも現実と幻想のはざまにたゆたうような物語であること。特に完成度が高いのは、やはり「猫町」か。一見平凡な町並みを描写しつつ、徐々に奇妙な兆候を混ぜ込んで緊張感をかきたて、それが一気に「町の街路に充満した猫の大集団」という異様きわまりない光景で頂点に達したかと思わせて、すべてを「幻」としてくるりと反転する。その手際は魔術をみるように鮮やかである。しかもラストでは、そうした「すべては幻だった」というオチすらも、荘子の有名な「胡蝶の夢」を例に挙げてあやしんでみせる。読者はこのきわめて短い短編の中で、「この世の何が現実で、何が幻想か」という、深い深い謎をかけられてしまうのである。

こうして見ると、同じ「人が猫に変貌する町」というモチーフを使い、さらにそれが幻想であったというオチまで共通であるにもかかわらず、「猫町」と「いにしえの魔術」はやはり似て非なる小説であると思わざるを得ない。「いにしえの魔術」では、主人公の陥った怪奇体験は「中世の魔女伝説」によってしっかりと裏付けられ、その体験が何であったかも、心霊博士ジョン・サイレンスによって明快に分析されてしまう。そこには、きわめて異様で幻想的な世界を扱っていながら、西洋的な合理主義の考え方を感じてしまう。

一方、朔太郎の「猫町」では、猫の意味も明らかにされず、主人公の体験も現実と非現実の「あわい」のようなところに取り残され、むしろその境界線すら「胡蝶の夢」でぼやかされてしまう。英国の「怪奇」と日本の「幻想」の違いが、そこには鮮明にあらわれているように思う。同じようなモチーフだからこそ、その違いがかえって際立つのかもしれない。

ちなみに、「猫」の中でも黒猫は、西洋的な発想では確か、魔女の使い魔といった意味合いを帯びており、「猫」と「魔女」はきわめて近い存在としてイメージされたのではなかったか(だから「魔女の宅急便」では黒猫のキキがいるのである)。だとすれば、ブラックウッドの小説もそうした連想が前提となっていると思われる。一方、朔太郎の「猫」がどのようなイメージをもつのかはよくわからない(日本でも「化け猫」というのがあるが、そういうイメージではないような気がする)。