自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

白川静『文字逍遥』『漢字の世界1』松岡正剛『白川静』(#646〜#648)

文字逍遥

文字逍遥

漢字の世界〈1〉中国文化の原点 (平凡社ライブラリー)

漢字の世界〈1〉中国文化の原点 (平凡社ライブラリー)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静はものすごい。

それまでは、後漢時代の『説文解字』が、漢字の字義解釈のバイブルとされていた。中国でも日本でも、さまざまな注釈は行われたものの、この巨大な壁を打ち破った研究者はいなかった。しかし、白川静はそれをほとんど独力でやってのけた。『説文解字』当時は発見されていなかった古代中国の甲骨文や金文を研究し、解きほぐし、結びつけることによって。その結果あらわれてきたのは、これまでと全く異なる古代中国の姿であった。

例を挙げるとキリがないのだが、例えば一つの鍵(松岡氏の言い方にならえば「漢字マザー」)となる文字の部位が「サイ」と呼ばれるものである。これは現代の漢字では「口」として表記されるが、もともとはアルファベットの「A」をさかさまにしてとがった部分を丸くしたような形をしており、甲骨文や金文にはこの形象がよくみられる。これが意味するところは「神に祈る時の祝詞の器」である。神に捧げることばであるから、ただのことばではありえない。それは呪力を秘めたことばであり、言い換えれば「言霊」である。それをおさめておく器が「サイ」である。

ここから芋づる式に、さまざまな漢字のもつ意味が読み解けてくる。たとえば「言」という字。もともとの形は「サイ」の上に「辛」を重ねたものである。「辛」とは持ち手のついた鋭い針を意味し、古代中国ではこうした針によって入れ墨を入れられた。となると、「言」の意味するところはどうなるか。それは神に祈って何かを誓うときの神聖なことばを示していた。そのことばに偽りがあるときは鋭い針で入れ墨の刑を受けたことから、上に「辛」がついているのである。

このようにして、白川静は「サイ」のつく「告」「語」「吾」「話」「右」などの字のもつ意味を次々と明らかにしていく。だが、この解釈は単なる漢字雑学などではない。おそるべきことに、こうした解釈の中から、実は古代中国の呪術に満ちた世界、とりわけ神と人との交信にまつわる「思想」と「作法」が浮き彫りになってくるのである。これは「サイ」をめぐる解釈にだけ見られることではない。「工」(呪器を意味する)、「方」(左右にわたした横棒に屍体を架した形)、「夕」(祭肉、つまり神に捧げる肉の形)などの部分解釈を踏み台に、さまざまな角度から古代中国における信仰、文化、社会、習俗があぶりだされていく。

それこそ、たったひとつの漢字の意味を深く深く掘り下げていくという、言ってしまえばそれだけのことで、はるか昔の中国のありようが、精緻な建造物のように組み立てられ、展開されていくのだ。個人的に一番衝撃を受けたのは「道」という字。実はこれ、その字のとおり、人の生首を掲げて道を歩くところからきているのだという。なぜなら、古代の中国においては、城壁に囲まれた街から一歩外に出れば、そこは異神の支配する危険きわまりない地であった。そこを通る道を行くには、虜囚の首を携えることで、その呪的能力によって身を守る必要があったのだ。

そして、そうした古代中国の思想は、まさしく漢字を通じて我が国にも流れ込んできている。『漢字の世界』では、中国の「詩経」などと並んで「万葉集」が多く登場する。そこにみられる漢字の用法は、甲骨文や金文の時代の中国の流れを間違いなく汲んでいる。そのことはつまり、現代の日本語においても、こうした古代中国の思想が生きていることを意味する。もっとも、白川氏が手厳しく批判するとおり、漢字の豊穣さは「常用漢字」の制定によって著しく痩せ、貧しいものになってしまっているのであるが。

とにかく、白川静は日本人必読である。いや、東洋全体がこの書を基礎文献としなければならない。それが東洋の一体性を取り戻すための意外な近道になるのかもしれないと言ったら、夢想に過ぎるだろうか。

ちなみに今回読んだ3冊の中で、『漢字の世界』は1,2とあるが、「2」はこれから読む予定なのでいずれ紹介する。『文字逍遥』はアンソロジー的な一冊だが、いずれも読み応え十分の内容ばかりで実に面白い。中でも「文字学の方法」は、白川氏の著作『漢字』(岩波新書)に対して寄せられた藤堂明保氏の批判に対する反論であるのだが、同時に白川漢字学、いな白川東洋学の高らかな宣言であり、その志と目指すところの高みを提示するものとなっている。松岡正剛氏の『白川静』は白川氏に関する入門書としてはおそらく唯一のもの。とはいえ、その見識は深く、その目配りは広く、これを超える解説書は当分現れないと思う。