【559冊目】老子「老子」【560冊目】福永光司「老子」【561冊目】加島祥造「タオにつながる」

老子 (岩波文庫)

老子 (岩波文庫)

タオにつながる

タオにつながる

やっと見つけた、と感じた。

これまではっきり言葉にはできなかったが、ずっと追い求めていたもの、理想としていたもの、そのすべてがここにあった。歎異抄や禅への漠然としたあこがれ、桜井章一氏の言葉への共感、あるいは「先進自治体」の施策に対して感じていた違和感。その答えが見つかった。そうなのだ。無為こそが為政者の要諦なのだ。空気のような行政こそが最上の行政なのだ。個人の人としてのあり方と、政治のあり方は、根本において通じているのだ。なんだ、全部ここに書いてあったではないか。

言うまでもなく、老子は中国春秋時代の哲人の一人であり、その思想は道教の源流となり、東洋思想の根底をかたちづくった。その思想は、孔子のとなえた儒教とは対照的で、人為的・人工的な「礼」よりも、自然と一体化した「道」を最重要視した。ちなみに、福永光司氏の「老子」は、「老子道徳経」81章の内容を逐語的に解説したもの。同じく道家の一である荘子との類似性、あるいは孔子との対比、また西洋思想や後世の仏教思想などとの対比が丁寧に行われており、文理解釈としては非常に充実したものとなっている。

一方、「タオにつながる」の加島祥造氏は、自らも自然の中で独居する「タオイスト」とのことで、自らの体験や思索を通じて老子の言葉を語っている。福永氏の著書とはだいぶ違うスタンスであるが、個人的な感覚では、加島氏のように自分なりに老子の言葉を咀嚼し、自らの感性にひきつけて語るほうが、老子の本質には近いような気がする。老子の言葉はどこか分析をゆるさない面があり、細かく解析すればするほど、その真の姿から遠ざかってしまうようである。「知る者は言わず、言う者は知らず」とは、まさにこのことであろうか。

ということで、ここでもこれ以上「分析的」な語り口上はやめて、思いつくまま、思い出すままに、印象に残った老子のフレーズを綴っておきたい。

第1章は、名づけえぬもの、語りえぬものこそ道であるとする。道はすべての根源にあり、それ自体は(福永氏の表現を借りれば)カオス、混沌そのものである。しかし、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」るのだという。ちなみに、1,2,3という数字も意味深。3つが万物の根源となる数なのである。

「上善は水のごとし」は、日本酒の銘柄という認識しかなかったが、全然違う意味だったと知ったフレーズ。やわらかく形のないもの=柔弱こそ「上善」であり、「生の徒」であり、最も強い(というか、強弱を超えた)ものなのである。

和光同塵」は、今回はじめて意味がすとんと腑に落ちた。また「敢えて天下の先とならず」もこれに通じる。個人の在り方としても、自治体の在り方としても、実に示唆に富んでいる。

また、老子には政治論が多いのもすでに書いたとおり。諸国入り乱れての戦乱の世であったからこそであろうが、この政治論がまた、深い。人民を搾取するなどもってのほか、法令でやたらに縛らず、むしろ自由に放っておくのが良いとされる。

無為といっても、ただ何もしない怠惰な政治を良しとしているわけではない。むしろ、コトが大きくなるまえに的確に対処しておくから、結果として何事も大事に至ることがなく、為政者は何もしていないように見えるということなのである。このあたりは、自治体の行政においてもまさしく要諦であろう。大事に至ってから大慌てで法律を作って縛ろうとするのではダメなのである。

他にもいろいろあるが、少なくともひとつ、確信できた。「老子」は、これから何度も戻ってくる地点、自分にとってのバイブル的な地点となることだろう。無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら……という質問があるが、これからこの質問をされたら、私は迷うことなく「老子」と答える。