自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

ラフカディオ・ハーン【543冊目】「日本の面影」【544冊目】「怪談・奇談」【545冊目】「神国日本」

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

怪談・奇談 (角川文庫クラシックス)

怪談・奇談 (角川文庫クラシックス)

ラフカディオ・ハーンと言えば「小泉八雲」。そして小泉八雲と言えば、すぐに思いつくのが有名な「怪談」であろう。「耳なし芳一」や「むじな」「雪女」など、おそらく日本人なら誰もが知っているお話ばかりである。どれもきわめて「日本的」な内容ばかりであるだけに、その著者である「小泉八雲」が、実は外国人ラフカディオ・ハーンであると知った時(たぶん中学生くらいだったと思う)には、心底びっくりしたものだ。

とはいえ、もちろんハーン自身がこうした話を「創作」したわけではない。ハーンがやったのは、様々な人々からの聞き取りや文献の渉猟、その結果選び抜かれたお話を、美しくも恐ろしい一篇の物語に昇華するという「作業」であったのだ。ちなみに、ここで挙げた「怪談・奇談」のうち「怪談」はハーン自身が選んだ短編集であるが、「奇談」は、ハーンの他の著作から「この手の話」を集めたアンソロジーである。そのため、「日本の面影」にも同じ話が入っていたりする。また、上田秋成の「雨月物語」とほぼ同様の話が見られるのも面白い。

それはともかく、そういうことで小泉八雲ラフカディオ・ハーンといえば怪談のイメージしかなかったのだが、実はハーンは「日本」というものを一貫して語り続け、考え続けた人でもあった。「日本の面影」は、その中でも比較的初期、日本に訪れてから、最初の赴任地である松江を離れるまでの、西暦1890年頃の1年半ほどを綴っている。日本に初めて訪れた折の印象から始まっているのであるが、驚かされるのは、その目に映った瑞々しい日本の自然と、人々の明るく笑顔を絶やさない様子の描写である。今と同じ日本とは思えない。否、同じ日本ではないのだろう。この本では、ハーンによる面映ゆいほどの日本への賛辞が並んでいる。しかし、そこに当事者としての面映ゆさを感じるには、我々はあまりにも変わりすぎてしまっているような気がする。

そうしたある種無邪気な日本礼賛に対して、「神国日本」のほうは、かなり理知的で分析的なスタイルを取り、「日本の面影」で感じた日本の特質を、ハーンなりの視点で理論構築するものとなっている。その内容は歴史から宗教、民間の習俗まで多岐にわたるが、基本となっている考え方のひとつは、社会的な強制や抑圧が、明治日本の美質をかたちづくってきた、という認識である。それは厳格な身分制度や、抑圧的な地域集団(ムラ)といった社会的な抑圧装置のかたちを取っており、それが幕府や藩のやはり強権的な統治姿勢とあいまって、今の日本人のメンタルを形成してきた、とハーンは考えたのだ。そうした歴史的経緯の結果つくられた表層が、「日本の面影」でハーンが感じたような「美しい日本」であった。いうなれば、「日本の面影」が日本に関するハーンのファースト・インプレッションであるとすれば、「神国日本」はハーンの日本研究の集大成であり、日本に対するハーンの「結論」となっている。

このあたりになってくると、さすがにハーンの日本に対する評価も、それほど手放しの賛辞というわけにはいかない。ただ、ハーンの面白いところは、だからといって西洋的な価値観を単純によしとして、西洋的な価値観にあぐらをかいて日本を裁くような(多くの「日本ウォッチャー」にありがちな)態度を取らないところである。日本びいきといえばそれまでなのかもしれないが、厳しい分析の中でもハーン自身はあくまで淡々とした中立的な姿勢を崩さない。だからこそその分析が、細部の認識にはあやしいところもあるにせよ、説得力をもって読み手に迫ってくる。

さて、そうなると疑問なのは、なぜハーンがそこまで日本を愛し、日本に惹かれたのか、ということであるが、その答えはこの3冊からは見いだせなかった。それを探るには、日本に至る前のハーンを知る必要がありそうだし、「ハーンの見た日本」ではなく「日本の見たハーン」を辿る必要もありそうだ。

だが、この3冊を読んで得られた収穫もある。それは、ハーンが日本を見た「目」にはいくつかの種類があった、ということだ。「日本の面影」で生きているのは、映像的な感性の目。五感を通してみた日本、ということもできよう。それに対して「神国日本」では、歴史や宗教観を踏まえた理性と分析の目が活躍している。ある意味、最も「西洋人らしい」見方かもしれない。

では、「怪談・奇談」はどうか。思うに、ここに生きているのは、もっとも根源的で無意識的な、日本の精神の目かもしれない。そして、「日本の面影」で描かれた日本はすでに失われたかもしれないが、「怪談・奇談」で描かれた日本は、われわれの心の最も奥深いところに、まだ息づいているような気がするのだ。

次回は「自治体職員の文章作法」の予定。