自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【481冊目】ドストエフスキー「地下室の手記」

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

本書はある一人の男のモノローグである。その男というのが、中年の元役人(!)であり、嫌われ者で自意識過剰、プライドが高くて猜疑心の塊という、まあよくぞここまでと思えるほどの「嫌な奴」。前半はその男が世の中を、特にその合理性や科学主義を批判する内容であり、やや抽象的な議論が続く。後半の「ぼた雪に寄せて」は男自身の行動や心理の描写が続くが、こちらも周囲への批判と底なしの絶望が渦を巻いており、読んでいると人間の心の最も暗く醜い部分に連れて行かれるようなところがある。

特に印象的だったのは娼婦リーザである。男は金で買ったリーザに対して通り一遍の説教をした上、彼女の絶望的な将来をこと細かく語ってみせて彼女の心を押しつぶそうとするのだが、にもかかわらずリーザは、男の言葉の裏に男自身の絶望と不幸を感じ取って、心の深いところで男と共振する。その瞬間こそ、本書でほとんど唯一、男の心が救われる瞬間なのである。人間の心の俗悪さと貧困、エゴイズム、その奥底の絶望と不幸の極みを、一人語りの中でここまで深く掘り下げ、えぐった本を他に知らない。

本書は、ドストエフスキーがシベリア抑留の後に記した「死の家の記録」に次いで書かれたもので、「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」等に先行する初期の作であるという。大学時代にドストエフスキーはいくつか読んだことがあるが、確かに本書はその濃密さをさらに濃縮させた原型のようなところがある。宗教と人間のかかわり、人間にとっての救済など、その作品全体に通底するテーマも顔を出しており、リーザの存在は「聖なる娼婦」ソーニャを思わせる。短いが強烈な作品である。