自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【417冊目】五十嵐太郎「美しい都市・醜い都市」

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

景観については前に取り上げたものを含め何冊かの本を読んできたが、どの本に対しても、正論だとは思いつつも違和感を感じざるを得なかった。その最大の原因はやはり、何が「良い」景観で、何が「悪い」景観か、を一方的に決めつける(しかも、多くは決めつけていること自体に無自覚)な書き手の姿勢であるように思う。

そこのところが象徴的にあらわれているのが、本書の冒頭で紹介されている実例である。著者が大学の建築学科1年生に対して、自分が美しいと思う建築、醜いと思う建築の例を、実際に町に出て撮影させたのだが、彼らが美しいと思う建築は大手ハウスメーカーの建売住宅や、郊外に建てられたウェディング用のチャペルなどであった。そして、昔ながらの工場や店舗などは軒並み「醜い建築」とされてしまったという。おそらく、これが現代の若者の平均的な「美的感覚」であり、世の「景観論者」が言う「美しい景観」などとは遠くかけ離れたところに、実際の感覚は存在する。

こうなってくると、では美しい景観とは何なのか、ということになってくるが、もともと人によって美醜の基準が違うのは当たり前である。むしろそれを無神経に「これは美しい」「これは醜い」などと斬って捨てる人間のほうがおかしいのである。本書では従来の「景観論者」たちとは違った感覚で都市の美しさとは何か、醜さとは何かを論じているが、私の感覚は、これまで読んできた学者連中(フィレンツェやパリの写真を掲げて日本もこのようになるべきだと論ずる方々)よりは、本書の著者のそれに近い。

そもそも景観とはその国の文化や習俗、人々のくらしなみの集積の上に現れるものであって、それを、ウワモノだけ人工的に変えようという発想に私は違和感を感じる。現在の日本の、特に大都市に見られる派手な看板やネオンサイン、その上空をうねるように通過する高速道路などについても、前にも書いたが、醜悪というよりむしろエネルギッシュで近未来都市のような魅力を感じる人もいると思う。むしろたかだか明治時代に西洋建築のイミテーションとしてつくられた、日本橋をはじめとした明治時代の建築物など、海外の観光客からすればちゃんちゃらおかしい。日本人にとってはそれなりに意味のあるオブジェであっても、観光客にとっては、単なる西洋建築の粗悪な模造品である。誰がそんなものを見たくて日本に来るものか。

景観行政が不要であるとは言わない。観光のため江戸時代の街並みを再現したり、その地域の歴史や文化を知り尽くした上で、それを踏まえた景観を作るのはひとつのまちづくりの手法としては有効であろう。しかし、近年の「景観論者」たちが語り落としていることは、それが一歩間違えば「景観という公のために私有財産を犠牲にするのは当然」とする景観ファシズムにつながりかねない点である。その究極的な姿こそ、本書でたっぷり紹介されている平壌の見事な「景観行政」だろう。世の「景観論者」たちは、平壌の整然とした無機的な町並みをも「美しい」と賛美するのだろうか。