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自治体職員の読書ノート

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【82冊目】尹 雄大「FLOW―韓氏意拳の哲学」

その他の本

FLOW―韓氏意拳の哲学

FLOW―韓氏意拳の哲学

本書について書くには、「韓氏意拳とは何か」を書くのが順序なのだが、実は、それがきわめて難しい。中国武術の流れを汲む一派なのだが、「武術」というよりは「武学」というべき独自の体系をもち、その内容もきわめて説明しづらい。というよりおそらく、韓氏意拳という存在自体が、そもそも言葉による説明や定義づけを本質的に拒絶しているのかもしれない。

本書自体、要するに「韓氏意拳とは何か」を記述した本なのだが、具体的に「韓氏意拳とは○○である」という記述は存在しない。代わりに、「韓氏意拳は○○ではない」という否定形が多く用いられている。いわく「具体的なものはすべて誤りである」「うまくいったと思った動きを再現することはできない」「川の流れは常に以前の流れとは異なる」・・・・・・。いいかえれば、韓氏意拳にあらざるものを否定形によって否定した残存部分が、韓氏意拳ということになる。そして、読者はその「消去作業」を行うことにより、韓氏意拳の要諦に知らず知らずのうちに引きつけられる。

さらに、本書は韓氏意拳という独自の体系を通じて、そもそも「人が生きるとはどういうことか」という人生哲学のレベルにまで光を当てている。その軸となる概念が「体認」という発想である。これについても例によって説明が難しいのだが、誤りを承知で記せば、「『いま』をそのままに認識すること」である。これと対比されるのが、過去の経験や知識・情報の記憶、それに基づく思考・感覚に基づく「確認」である。韓氏意拳では、記憶や経験など、この「確認」的な要素をとことん排除する。その発想は、これまた誤りを承知で言えば、老荘思想や禅の世界に通じるものがある。ただ、韓氏意拳ではそれを説諭や座禅で「悟る」のではなく、身体運動を通じて、いいかえれば「身体」という枠組を通じて伝えるのである。例えば「手を前に出す」という運動ひとつをとっても、「前に出そう」という意識や「○○して出そう」などという考えをもたず、「ただ前に出す」ことが必要であるとされるのである。

本書で書かれている内容は決して簡単ではない。しかし、本書の言葉には、頭ではなく身体に直接響く味わい深いものが多い。身体哲学というべき深い内容をもつ一冊であり、「いま」に生きるということの難しさを思い知らされる本である。