自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2077冊目】ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

 

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

 

 

主人公シモーネ・シモニーニは、祖父からユダヤ人への憎悪と偏見を吹き込まれて育ち、文書偽造のスペシャリストとして歴史のダークサイドを動かす存在になる。その影響力は、イタリア統一運動にパリ・コミューン、そしてドレフュス事件。そして、プラハの墓地を舞台に「創造」されたユダヤ人の世界征服計画書「シオン賢者の議定書」にまで及ぶ。

著者は唯一、このシモニーニのみを架空の人物として描いたという。それ以外の人物や事件はすべて実在のものであった、ということだ。実在の中に埋め込まれた、一点の虚構。そこから生み出された偽造文書が、歴史を作り替えていくリアリティ。その虚々実々に、エーコの博識と小説技巧が光っている。

小説自体にもいろいろな技巧が凝らされているらしいが、残念ながらそれを読み解くのは私にはちとキビシイ。それでも、文書偽造をめぐる闇の世界の深さと、そこに漂っている憎悪は、読んでいてひしひしと感じられた。特に、確信をもってユダヤ人を貶めようとし、そのためにあえて虚偽の内容を書き広めようとするシモニーニの悪意には、慄然とならざるをえない。その思考回路をものすごく単純化して書くと「あいつらが悪いことをしているから、嫌いだ」ではなく「あいつらが嫌いだから、奴らの悪行をでっちあげてやる」なのである。「誇り高いゲルマン人」が聞いて呆れる。

そしてこのたくらみは、陰謀論を「信じる」人たちがいなければ成立しない。シモニーニはこう書く。

「こうして私は、陰謀の暴露話を売りつけるためには、まったく独自のものを渡すのではなく、すでに相手が知っていることを、そしてとりわけ別の経路でより簡単に知っていそうなことだけを渡すべきだと考えるようになった。人々はすでに知っていることだけを信じる、これこそが〈陰謀の普遍的形式〉の素晴らしい点なのだ」

 


このおそろしい指摘は、まったくそのとおりだと思う。後にナチス・ドイツがユダヤ人や共産主義者をめぐる陰謀論をでっちあげたときも、あるいはわが日本で、関東大震災の折に朝鮮人への流言飛語が悲惨な虐殺につながったときも、そこには、それを簡単に信じてしまう民衆の存在があったのだ。

だからこそこの小説は、おもしろくもおそろしいのである。流言や陰謀の根にある「事実」が偽造されるさまを克明に描くことで、そんなものに簡単に踊らされるわれわれの姿を、その向こうに浮かび上がらせている。もう一度言う。わたしたちは「悪いことをやっているやつらを攻撃する」のではない。「攻撃したいから、そいつらが悪いことをやっていると信じたい」のである。シモニーニに踊らされ、ユダヤ人虐殺にまで突き進んだ人々の姿は、鏡にうつった私たち自身なのだ。