自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1754冊目】イサク・ディーネセン『バベットの晩餐会』

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

「おいしい10冊」6冊目。

読み終わってもしばらく、その読後感を忘れられなかった。それどころかもう一度味わいたくて、わざわざ最初から読み返したほどだった。著者の小説は以前『アフリカの日々』を読んだことがあって、これはこれですばらしい長編だったけれど、私の中に何かを残したという意味では、この短い一篇のほうが確実に残るものがあった。

それが何なのか、読んでいるあいだは分かっているつもりだったが、言葉にしようとするとするりと逃げていく。言葉にできない、いや、言葉にしてしまうのがもったいない、あの特別な「感じ」。そのまま手つかずでそっと取っておきたいような。

ノルウェーの小さな町に住む姉妹、マチーヌとフィリッパ。ふたりは若く美しかった頃、フランスでそれぞれに淡い日々を過ごしていたが、その経験を語り合ったことはなかった。その姉妹のもとにある日、フランス人の大柄な中年の女性が息もたえだえになって訪れる。

フィリッパがフランスにいた頃の知人、アシーユ・パパンの手紙を持っていた、バベットという名のその女性は、そのまま家政婦として二人の世話をする代わりに、二人と一緒に暮らすことになる。姉妹の指示のもと、バベットが作った料理は、鱈の干物に、エールとパンのスープ。しかし彼女は、町の誰よりも上手にその料理を作れるようになる。

バベットの寡黙だがただならぬ人柄が町に知れわたったころ、14年間ではじめて、フランスから手紙が届く。ずっと買い続けていた富くじがあたり、1万フランがバベットのものになったという知らせだった。その当選金をもってノルウェーを去ってしまうのではないかと案じる二人に、バベットは言う。監督牧師の百年祭を祝う晩餐会の料理をすべて自分に任せてほしい、それも本物のフランス料理のディナーを作らせてほしい、と……。

最高級のワイン、海亀のスープにブリニのデミドフ風と、ノルウェーの片田舎で、わずか12人の客人に振る舞われたそのディナーが、本書のクライマックスだ。あまりにもすばらしい食事は、それだけで神の国を地上に呼び寄せる、という。素朴な町の人々はこう感じた。

「すべてはいつも心に抱いていた希望が成就されたにすぎなかったのだ。あのときは、この地上での世俗の幻想が、彼らの目から煙のように消え失せてしまって、彼らは本来の世界を見ていたのだ。至福千年の時を彼らは一時間だけ与えられたのだ」(p.81)


だが、この物語が本当に素晴らしいのは、そのラストである。この晩餐会を最後に、やはりバベットは富くじの当選金、1万フランをもって去ってしまうのでは、と聞く姉妹に、バベットはこともなげに言い放つのだ。

「カフェ・アングレではディナー12人分で1万フランでした」


バベットがフランスでも最高の料理人であったことが、ここで明らかになる。政情のあおりでフランスを追われるまで、バベットは最高のフランス料理を出すカフェ・アングレのシェフだった。それがノルウェーの片田舎に追われて、14年間、毎日鱈の干物とエールとパンのスープをつくっていたのだ。「わたしはすぐれた芸術家なのです」というバベットの言葉は、だからこそ痛切に胸を打つ。

この物語は映画にもなっているらしいが(しかもかなりの名画と評価されているらしいが)、まあ、私には小説だけで十分だ。忘れがたい、いい小説だった。ちなみに本書にはもう一篇「エーレンガール」という小説も収められているが、こちらもなかなか面白い。田中優子氏が解説で書いておられるように、北欧神話の女神がそのまま現実世界に降臨してきたような物語である。

だいたい、シチュエーションがおもしろい。王子と結婚したばかりの王妃において「大公家のお世嗣ぎが、名誉と秩序が認めうるより丸二か月も早く、この世に生まれることに」なった、という状況で、いかに二か月間にわたり赤ちゃんを隠しおおせるか、というのがメインストーリーなのだ。

それに女好きの絵描きやらヴァルキューレのごときエーレンガールやらが絡み、短いながらなかなかメリハリの効いた物語になっている。だがやはり、小説としての完成度では、私は「バベット」のほうを採りたい。忘れがたい小説である。

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